― 243 ―は、遠近法を用いた空間把握、雄大な背景とそれとは対照的な人物群像という点において類似している。《イスリーの勝利》は、西洋におけるアカデミーによって最も権威付けられていた画題、つまり歴史的な事件を群像表現として大画面上に破綻なくまとめあげた歴史画である。狩は軍事訓練の一つでもあったことから、《富士巻狩之図》は西洋において宮殿などを飾り、所有者を顕彰する歴史戦争画を参考に描かれた可能性を指摘したい。《富士巻狩之図》で最も描きたかったのは、広大な富士山麓で、多くの武士が猪や鹿を狩っているという情景であっただろう。頼朝は、富士巻狩を行なう前にも、那須野、三原野といった場所でも狩を行なっている。これら関東にそびえる三つの火山の裾野を巡る大規模な「巡狩」を行なうことで、神を祭るとともに、統治者としての資格を神に問う必要を感じたのではないかという指摘がある(注15)。その獲物は、大地を象徴する猪や鹿であり、それを狩ることにより、大地に対する王の領有権を確認するものであった。王が国々を巡りながら狩を行なう「巡狩」の際、丘の上などからその国を眺める「国見」的要素も帯びており、つまりそれは領有を確認する行為であった。それを絵画化した本作品において、頼朝は同主題の他作品に見られるような誇示をされておらず、あまり目立たない存在となっている。描かれているのは頼朝による富士巻狩であっても、本作品はその主題のみを借用して、別の意味を重ねているように思われる。つまり《富士巻狩之図》は、東国を治めた頼朝の富士山麓での「巡狩」という大地の領有権を確認するという行為と、東京遷都後再び権力をにぎることとなった天皇の王権とを重ねているのではないかということである。新しい時代の天皇の住まいである、明治宮殿に飾ることを強く意識した上での主題選択であっただろうことが推測される。3.3 室内装飾としての《百花百鳥図》《富士巻狩之図》ここで両室の位置を確認しておきたい。東溜之間は正殿の北東、豊明殿の南東に位置し、西溜之間は正殿の北西、豊明殿の南西に位置する。両室は、庭園を隔て、東西に相対している〔図4〕。両室とも、朝議の日に参列した臣下の候所として使用されていた(注16)。また、東溜之間では枢密院会議も行なわれ、その際には玉座が設けられた。この両室の使分けに関しては、文献資料において特に記されていないが、表宮殿の西側の部屋は奥宮殿に近いため主に皇族が使用していたことから、西溜之間は皇族の候所、東溜之間は一般臣下の候所であろうことが推測される。
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