tsuto
254/639

― 244 ―《富士巻狩之図》という歴史画が、皇族の候所に飾られていた。武士を主題とした障壁画や装飾は、「武士の時代」であった近世にいかにもありそうだが、障壁画や建築彫刻に限定すると、江戸城などの城郭や天皇の御所にも例がない。よく考えてみれば、「武士の時代」に「武士の住まい」で武士そのものを描く必要性はない。対面をする側、される側が武士であった近世には、むしろ公家の風俗や儀礼を借りて、伝統や権威を表現していた。身分や立場が異なるからこそ借りる意味があったと言える。このことをふまえると、明治が「武士の時代」ではなかったからこそ、また西溜之間が「武士」が使用する部屋ではなかったからこそ、武士を描く必要があったのではないだろうか。明治維新後の日本は、文よりも武を尊ぶ富国強兵の軍事国家であり、その頂点に立つ天皇は服装・行動・宮廷制度等の変革により、「公家」から「武人」へとイメージの転換が図られた。当然、皇族もそれに追随しなければならない。だからこそ、皇族の候所に《富士巻狩之図》が飾られたのではないだろうか。そのように考えると、東溜之間に飾られた《百花百鳥図》の意味も明らかになってくる。東溜之間は、一般臣下の候所に充てられていた。明治国家において、特にその初期から中期にかけて、支配機構のなかで旧士族が占める割合はきわめて高かった。明治14年(1881)段階で、中央・府県道の文武官、司法官、警察官、監獄官、技術官よりなる官員のうち士族が占める割合は70%弱であった(注17)。明治政権は、実質的には士族の政権であり、武士の政権であったのだ。従って、東溜之間を使用するのは一般臣下といえども、そのほとんどが士族階級出身者であろうことが推測される。だからこそ、前近代において中国的な吉祥モチーフを散りばめた、見た目に華やかな宮廷趣味的主題の作品を必要としたのではないだろうか。以上のように、明治宮殿の美術染織は、皇族に対しては、「武」をまとった一国の王としての天皇、士族が大半を占める一般臣下に対しては、宮廷文化の担い手としての天皇が表象されているのではないかと考える。おわりに以上のように、明治宮殿を飾った美術染織について、作品そのものの分析にとどまらず、室内装飾の一部として捉え考察してきた。建築内でこれらの作品の果たす役割は大きく、建物/空間の所有者/受容者や用途という建物の内と、その社会状況やそれが建つ土地など建物の外との関係をどのように捉えるかを、念頭において製作されたことが視覚的に認められた。いずれの作品も、明治宮殿の工事に関する公的な記録に製作や導入の経緯などが記されておらず、その点に関しては今後引き続き調査を

元のページ  ../index.html#254

このブックを見る