― 16 ―十五町跡からは14世紀前半から15世紀前半の遺構で笄鋳型が発掘されており、金属製笄の普及が確認できる(注16)。また、耳掻のついた笄もこの頃からみられるようで、前述阿蘇神社の腰刀の笄は、額があって魚々子地に牡丹文を高肉彫とし、耳掻が裏面に返る珍しい形状(逆耳)で、同形の笄が福島・信夫山山頂遺跡(15世紀前半以前)から出土している(注17)。笄の寸法は、前述春日大社の「菊造腰刀」における笄櫃内部から鞘口までの長さが16.1センチ、「牡丹造梅花皮鮫鞘腰刀」のそれが17.6センチと鹿角製の笄を収める長さとなるが、柏木菟腰刀のそれが25センチ、阿蘇神社の腰刀の笄が21.5センチとされることから、大型の笄もあったことが分かる。一方、小柄は類例があまりないものの、阿蘇神社の腰刀には銀製無文のものが付属し、素材面で装飾化が進んだものと思われる(注18)。以上のように、南北朝時代は刀身の形状変化に起因する構造上の変化があり、さらに華美を好む社会的背景から装飾的な刀装が生まれ、それは笄・小柄という刀装具にまで及んだことが分かる。Ⅲ.室町時代①この時代は、応仁元年(1467)に発生した応仁の乱が変化の指標になる。また、その展開は、平時と戦時との装いの差別が明確になり、相互が均衡を保って近世へと連続する武家服飾史のそれと類似したものになる。応仁の乱以前の伝世品の腰刀は基準作例がないものの、広島・草戸千軒町遺跡の15世紀前半の遺構から出土した腰刀の形代〔図4−6〕、「十二類合戦絵」(重要文化財、室町時代・15世紀前半、個人蔵)〔図7〕があり、前述「牡丹造梅花皮鮫鞘腰刀」と類似する。これらの作例では笄に耳掻がないが、享徳元年(1452)賛の「多賀高忠像」(重要文化財、京都・芳春院)、「結城合戦絵」(重要文化財、15世紀、国立歴史民族博物館)〔図8〕には耳掻を伴った笄が描かれ、埼玉・霞ヶ関遺跡の15世紀後半の遺構からは同様の銅製笄が出土し(注19)、耳掻を伴う金属製の笄がこの頃までには普及したものと考えられる。なお、本遺跡の笄の紋は、「樋」と呼ばれる凸型の細長い定規のようなもので、中世後半の笄における紋として時折みられるが、これは骨角製の笄における溝の名残と解釈される。嚴島神社には国宝「梨子地桐紋螺鈿腰刀」〔図4−7〕が伝わるが、これは天保13年(1842)に発行された『嚴島宝物図会』から合口式②であることが分かり、付属する笄は前述霞ヶ関遺跡のものと寸法及び形状がほぼ同一である。また、柄の胴金と柄頭を赤銅地(黒地)とし、文様を色金であらわす点は15世紀後半の制作とされる「桃井
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