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― 253 ―~1198)に「善財善知識の紙形」を自ら写したのを手始めに(注11)、『華厳経』入法界品に説かれる善財童子の善知識歴訪の諸場面及び毘盧遮那仏から構成される善知識曼荼羅を、何枚か作らせてもいる。善財童子の歴参に見るように、明恵にとっての知識とは、多種多様で固有の像容を持たず、華厳の世界で出会うことによって仏法を教え導いてくれる存在であったのではないか。知識とされる義湘はそれゆえ、既存の様々なイメージによってその図様を形作り、多義的な様相を呈しながら、出会った者を教え導く師として絵巻のなかに立ち現れていると言える。(2)阿難イメージ先に義湘絵の義湘を形成する、複数のイメージについて述べたが、義湘像にはなお別のイメージが読み取れるように思われる。本絵巻で重要な義湘、善妙の出会いの場面を再度見てみたい。義湘は他の登場場面と比べても、いかにも若年の相貌である。だが、『宋高僧伝』に拠れば、二人の出会いは総章二年(669)、義湘四十四歳の時であるから(注12)、この義湘は意図的に若く描かれていることがわかる。ここには、阿難のイメージが強調してあらわされているのではないだろうか。絵画に登場する阿難といえば、平安時代の作例としては、東大寺蔵の国宝・倶舎曼荼羅、京都国立博物館本の国宝・餓鬼草紙第六段、焔口餓鬼場面をはじめ、諸々の涅槃図などが挙げられる。これらに共通する若く色白の相貌は、平安時代の頃にはすでにある程度、定型化していることが認められ、鎌倉時代以降も、禅林寺蔵の重要文化財・釈迦十大弟子像(鎌倉時代・14世紀)や、興福寺蔵の重要文化財・護法善神像十二面のうちの一面(鎌倉時代・14世紀)〔図6〕にそうした図様が見られる。高山寺に所蔵される、岩に倚座して頭陀の様を表す釈迦と、その脇に左膝を立て、合掌する比丘を描いた一幅(鎌倉時代・13世紀)が、釈迦阿難像として知られている(注13)ことは興味深い。加えて、根津美術館蔵、重要文化財・釈迦如来像(鎌倉時代・承元三年〈1209〉)においても、釈迦の隣に立つ若年の比丘は阿難に比定されることがある(注14)。これらの作例は、鎌倉時代に南都を中心に興隆した釈迦信仰に伴い、釈迦に常に付き従った阿難への信仰も高まるなかで成立した可能性が考えられるが、明恵自身、熱烈な釈迦信仰のもと、阿難を崇奉していた様子がその伝記に残されている。釈迦の涅槃に際し、阿難が悲しみのあまり気を失ったこと(注15)はよく知られているが、義

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