― 254 ―湘絵の判釈文にも「阿難尊者は悶絶の悲しみを如来の入滅に出だす。これみな、愛心の至りなり」とあり、釈迦入滅時の阿難の様子が引かれている。一方、建仁四年(1204)湯浅宗景宅で行われた涅槃会にて、明恵も釈迦の涅槃を「恋慕」し、息がつまるほど悲しんだという(注16)。また、阿難は仏伝のなかで女人に出家の道を開いた高僧として語られる(注17)。尼寺善妙寺を建立した明恵の事蹟は、善妙を仏道へと導いた義湘だけでなく、阿難とも似通う。明恵が阿難の事蹟を相当に意識し、あるいは自身をなぞらえていた事実がうかがわれ、上人のそうした阿難信仰が、義湘絵に反映されていると見られる。善妙寺では、貞応二年(1223)七月九日、督三位局を願主とする快慶作の丈六釈迦如来像が本尊として施入されたのち、翌年四月二十一日に成忍筆の唐本十六羅漢像と阿難尊者像が本堂に安置され、開眼供養が行われた(注18)。十六羅漢像と阿難像は、善妙寺の尼僧たちを仏道に導く存在として期待され、安置されたと推察される。善妙寺に安置されたのが義湘像ではなかったという点は、特に注意されるだろう。明恵が義湘に見ていたのはその人自身ではない、十六羅漢や阿難といったイメージが重なり合った、一人の知識であったことを端的に示しているように思われるからだ。3.「泣く」図像と愛心阿難に関しては、山本陽子氏が、船出した義湘との別れを港で嘆く善妙の姿が、高山寺所蔵の仏涅槃図に見るような阿難の図様に由来することを論じている(注19)。この場面で善妙は、あられもなく仰向けになり、足を曲げ、手で涙を拭くような様を見せる。これを含め、義湘絵には、義湘との別れの場面に、泣く人々がたびたび描かれる。まず義湘が入唐のため新羅を発つ場面〔図7〕、その後、唐の港を離れる場面〔図8〕にそれぞれ、顔の涙を手の甲で拭うようにして泣く僧侶が登場する。そして、善妙が義湘の帰国を知る場面にて、善妙は義湘のために用意した篋を侍女に持たせ、顔を両袖で覆い泣き悲しむ。この善妙の姿は、カレン・L・ブロック氏の指摘するように(注20)、例えば福井・劔神社蔵八相涅槃図に描かれる、釈迦のもとに飛来する摩耶夫人の図様と酷似する。また、義湘絵に出てくる、眉根を寄せ、右手の甲を頬にやり、涙を拭うような図様の比丘形は、およそ鎌倉時代の涅槃図にしばしば見受けられるものであり、例えば広島・耕三寺蔵八相涅槃図〔図9〕、神奈川・称名寺蔵仏涅槃図〔図10〕、奈良・正暦寺蔵仏涅槃図〔図11、12〕、兵庫・浄土寺蔵仏涅槃図などが挙げられる。このように、義湘絵は涅槃図から「泣く」図様を援用しながら、師との別れの場面を表現していると考えられる。
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