― 255 ―判釈文によれば、龍になった善妙について、これは大菩提心の力によって菩薩道を満足したためであり、そうした善妙の師に対する愛心とは、信心である、と説く。西山厚氏が論じるように(注21)、義湘絵では愛心を信心と捉え、菩提心、すなわち悟りを求める心の妙因とみなして肯定し、その重要性を説いているのである。明恵の主要著書『四座講式』中の「涅槃講式」においても、釈迦への「恋慕」の善根と功徳が述べられている(注22)。「泣く」という行為は、愛心のわかりやすい発露とみなされたに違いない。義湘との別れが、釈迦との「別れ」を図絵する涅槃図の「泣く」図様によってあらわされるのは、師への愛心をわかりやすく表現したものと考えられる。善妙が義湘のために用意し、海へと流して渡し得た篋も、弟子から師への愛心、発菩提心の妙因の象徴と解されよう。おわりに本研究にて、義湘絵の義湘は知識として認識されていること、複数のイメージが網の目のように繋がって義湘の図様を形作るなかに、持戒の様や阿難のイメージが含まれていること、さらには、本絵巻が「泣く」図様を挿入しながら愛心を説くものであることが見出された。義湘絵は、教団内で特定の人物を顕彰するような祖師像制作とは異なる類の作例であり、義湘その人に対する信仰心の発揚を、意外にもほとんど目的としていない。善妙寺を建立しながら義湘自身の影像が作られない点を鑑みても、義湘を高山寺や善妙寺の祖師とみなす意識は、当時、希薄だったと見られる。それゆえ絵巻とは別個に、教団の掲げる祖師たる明恵の御影制作が進められたのではないだろうか。義湘絵の成立については、梅津次郎氏以降(注23)、善妙寺との関わりが論じられている。明恵が承久二年(1220)五月二十日に見た夢に、善妙が登場したという話(注24)は有名だが、先述の通り、貞応二年には本尊の釈迦如来像はじめ、十六羅漢と阿難像、そして善妙神像が善妙寺に奉納された。善妙神は、華厳擁護の誓いがあるために勧請した、新羅の女神であるとされ(注25)、「龍神」とも称された(注26)。さらに嘉禄元年(1225)、高山寺に大白光神、春日大明神とともに善妙神の鎮守社が設けられ、同年八月には白光、善妙両神像が同寺に奉納される(注27)。このように善妙寺の寺観及び善妙神信仰をととのえていくのにあたって、善妙寺の尼僧と高山寺の修行僧双方に、善妙に関する教理を説く必要性が生じたのではないだろうか。義湘絵の願主を、督三位局という高山寺を支援した女性壇越とする説もあるが(注28)、教導的な義湘絵の主題からも、善妙寺の造営前後に、明恵発案により制
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