― 17 ―直詮像」(重要文化財、伝土佐光信筆、東京国立博物館)と同様である。また、大館尚氏が永正6年(1509)に記した『長禄二年以来申次記』には足利将軍の御腰物(腰刀)として「御つ(柄)かさ(鞘)や梨子地に。こ(鐺)じりつ(柄)か頭御腰本(元)。何もし(赤銅)やくどう。御目貫は桐の丸焼つ(付)け。御か(笄)うがひは桐也。」とあり、伊勢貞久が永正6年に記したとされる『大内問答』では将軍の御腰物のうち笄は「御か(笄)うがい赤銅。み(耳)ゝや(焼)き付。又ひ(樋)の左右に御目貫のごとく成桐をや(焼)き付候。き(桐)り八ツ有。御笄のさきを二三寸置て金に而そ(削継)ぎつぎにつ(継)がれ候。」とあって、両者の笄は、赤銅製で桐紋をあらわし、竿を削継にする点は嚴島神社の腰刀に付属する笄と類似する。両記事は史料の性格から形式上定まった事項と解釈され、15世紀後半の刀装への言及と判断される。従って、これらの点から嚴島神社の腰刀は同時期の作例と推定されよう(注20)。また、本腰刀には、桐紋をあらわした小柄も付属し、小柄の装飾性がさらに進んでいることが分かり、同時に笄と共通した文様をあらわしていることから、目貫・笄・小柄で一組とし、同一ないし関連する紋で統一する刀装具である「三所物」の萌芽がみられる。Ⅳ.室町時代②このように室町時代の腰刀の形式は安定をみつつあったが、応仁の乱以後、戦時の装いから発した特徴も発生し、それは平時、公服の腰刀に組み込まれるようになる。奈良・法隆寺西円堂には天文5年(1536)から18年(1549)までの奉納年が明らかな腰刀が4口現存しているが〔図4−8〕、これらの腰刀の現存部分に注目すると、柄は黒鮫皮着に黒韋を巻き、鎺は下鎺のみの一重で合口式②を簡略化したもので、柄との間に、切羽と黒漆を塗った革製の鐔を装着する。この鐔は岡崎氏が指摘する通り、刺突の衝撃によって自らの指が短刀に滑り込まないように着けられたと考えられる(注21)。また、柄巻も滑り止めの工夫と思われ、総体に実用性、特に刺突を考慮した形式となる。この時期の短刀、脇指は、二種に分かれ(表1)、刃長15.4〜27.2センチ、98〜207グラムと小型で、厚みがあり、刃方へ強く反って茎(柄)が長く、刺突を強く指向した短刀と、刃長が39.8〜54.5センチ、重量が352〜587グラムで反りのつく脇指があり、先述した西円堂の腰刀の刀身はいずれも前者の範疇に入るものである。文明14年(1482)に記された『御供古実』では「一刀の柄巻候事ハ。御はれの時も又常にも有まじき事に候。巻候事ハ近代の事に候」、前掲『大内問答』には「刀の柄まく事は陣中の外にはなく候」とあり、柄巻が戦時の装いであったことに触れており、その様子は甲冑像の「細川澄元像」(重要文化財、永正4年(1507)賛、永青文庫)で確認される。また、三条西実枝(1511〜1579)の『三内口决』には宮中での腰刀の
元のページ ../index.html#27