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― 261 ―㉔ 中世の聖徳太子孝養像に関する調査研究研 究 者:神奈川県立歴史博物館 学芸員  神 野 祐 太はじめに聖徳太子孝養像は、太子十六歳の姿を造形化したものとされ、袍・袈裟・横被・裙を着け、両手で柄香炉を持ち、みずらを結った童子形であらわされる(注1)。この姿は、『聖徳太子伝暦』に「天皇不悆、太子不解衣帯、日夜侍病。天皇一飯、太子一飯。天皇再飯、太子再飯。擎香爐祈請、音不絶響」とあるように、父・用明天皇不悆に際してかたわらで熱心に看病するさまをあらわしているという。孝養像の成立については藤岡穣氏による詳論(注2)がある。そこでは孝養像形式の太子像が11世紀以前には成立し、その太子像に十六歳という具体的な年齢を充てた作例は、乾元2年(1303)の広島・浄土寺聖徳太子孝養像が最古とされた(注3)。しかし、近年詳細に報告された文永7年(1270)の東京・上宮会聖徳太子孝養像(注4)〔図1、2〕銘記に「奉造立 上宮太子十六歳御影」と十六歳の聖徳太子像であることが明記されることから、年齢の充当は文永7年以前に遡ることが確実になった。『民経記』嘉禄2年(1226)9月18日条に、聖徳太子廟の太子像を「十六御影」と記すことからすれば、鎌倉前期にはすでに孝養像に十六歳という特定の年齢の充当があった可能性が高い。本稿では、そのような契機について、当時の太子信仰の状況をふまえたうえで四天王寺別当慈円の影響下で、十六歳像=孝養像の観念が成立した可能性があることをのべてみたい。聖徳太子廟と四天王寺聖霊院の聖徳太子像鎌倉前期に十六歳の聖徳太子像が安置されていた可能性がうかがわれるのは、聖徳太子廟と四天王寺聖霊院である。前者の像は大阪・叡福寺像〔図3〕として現存する。未調査のため詳しいことは不明であるが、鎌倉時代に遡る像らしい(注5)。太子廟に着装の太子像があったことは、法隆寺所蔵の『嘉元記』貞和4年(1348)正月10日条に、「河内国太子御廟、武家打入、坊中在家悉令焼失了、堂塔伽藍少々残之、御廟之内無違乱、御影堂乱入シテ、御衣ハ取了、御手足少々破損云々」とあることからわかる。武士らが狼藉をはたらいたのは聖徳太子像であることは十分に推測でき、「御衣ハ取了」とあることから、着装像であったと考えられる。またこれよりやや下った、叡福寺所蔵の『応永年中記』

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