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― 262 ―応永28年(1421)3月6日条には、御衣を新調したことがみえる。御影堂は、天正2年(1574)に織田信長の兵火によって焼失し(『慶長五年旧記』)、慶長8年(1603)に再建された(鉄吊燈籠銘)。この時、聖徳太子像は救出されたと推測され、『嘉元記』や『応永年中記』にみられる聖徳太子着装像が現存像にあたるとみられるのである。次に、四天王寺聖霊院の太子像も太子廟像とほぼ同時期に十六歳とみなされた。平安末期から鎌倉初期製作の該当する像は伝わらないが、その存在は少なからず記録に残る。当時、四天王寺は太子信仰のメッカとして天皇や法皇・貴族らの参詣が頻繁におこなわれており、聖霊院や金堂が重要な堂宇であった。聖霊院そのものは、宝亀2年(771)頃に建立されたと考えられるが(注6)、平安中期頃まで約250年間の史料に記録がない。四天王寺ではその間に、承和3年(836)冬の塔への落雷や、天徳4年(960)3月の伽藍焼亡が知られ(いずれも『日本紀略』)、聖霊院にもその影響が及んだ可能性は高い。永承3年(1048)10月に藤原頼通、11世紀前半に歌人・赤染衛門が聖霊院に参詣したことが知られることから(前者は『宇治関白高野山御参詣記』、後者は『赤染衛門集』)、この頃までには再建されていたのだろう。奈良時代の聖霊院創建当時の太子像については詳細はわからない。彫像の存在がうかがわれるのは、嘉保3年(1096)頃に僧仙命が聖霊堂の「尊像」のまえで燃燈供養した『拾遺往生伝』上巻(注7)の記事である。この「尊像」は太子像のことと思われる。像についての詳しい記述は、藤原頼長の日記『台記』の康治2年(1143)10月21日条に「次余詣聖霊院、礼霊像、于時聖霊院童像自六時堂依念仏会訖也」と「霊像」「童像」2軀の太子像が安置されていたことがみえる。また、同月22日条には「幸聖霊院、先礼霊像、次御絵堂令僧説絵」と、聖霊院に詣でた際にまず霊像に参拝し、次に絵堂で絵説きを聞いたことを記述する。この2つの記事から、霊像が聖霊院の本尊で、童像が念仏会のために六時堂に移動する行像であったと考えられる(注8)。鎌倉初期の九条兼実『玉葉』文治3年(1187)8月23日条の、四天王寺で灌頂を受ける後白河法皇に同行し、法会の後、長子良通とともに諸堂を巡った時の次の記事(注9)中にもこの像がみえる。参聖霊院、入自西門、先奉礼太子、御影堂預給禄被物一重、致祈請、天下政可反淳素之由也、次廻西面、参絵堂令説之、頗経時刻、申終説了、給布五段、於閑所給之也、経廻廊外、出自西門この当時の聖霊院は、規模について不明ながら御影堂と絵堂の2つの堂宇で構成されており、廻廊で囲まれていることがわかる。御影堂には「太子」像が安置され、それ

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