― 263 ―に対して兼実らは祈りをささげた。御影堂と絵堂にそれぞれ供物を奉納しており、これらが組み合わされて信仰されていたのだろう。さらに、『玉葉』文治5年5月4日条には同寺の千部法華経供養に同じく後白河法皇に同行した記事がある。太子御輿と舎利御輿が登場し、両者が一対となって担ぎだされ、この法会のあと、「参聖霊院奉礼御影」と聖霊院にて御影を拝している。この御影は、前条の記述に照らして聖徳太子像のこととみてよいだろう。『台記』の記事を参考にするならば、「霊像」は「太子」および「御影」、「童像」は「太子御輿」にあたると考えられる。なお「霊像」は、『吾妻鏡』建久6年(1195)5月20日の源頼朝四天王寺参詣記事中にも「被奉御剣銀作薪柄作。於太子聖霊」(注10)とあり、この時期の四天王寺における太子像の安置状況を勘案すれば、頼朝が聖霊院の太子像に御剣を奉納したと考えられる。この2軀の聖徳太子像がこれ以後の太子像に大きな影響を与えたことは、すでに指摘されているとおりであるが、ともに像容がわかる同時代資料にとぼしく詳細は不明である。「霊像」を四十九歳像、「童像」を十六歳像とすることは共通するものの、「童像」には立像であるとする見解と坐像とする見解の二つがある。前説は現在聖霊院に安置される鎌倉時代の聖徳太子孝養像が立像であり、室町期の焼失前の姿を踏襲したことを積極的に評価する(注11)。後説は、行道で使用するため輿に乗せる必要があるため、法隆寺に伝わる絵殿旧蔵像のような姿であったとする(注12)。史料には具体的な記述がないためどちらであったのか実際のところは不明であるが、両説ともに孝養像のプロトタイプになったのは童像であるとする。その「童像」が十六歳像とみなされていたと思われる記事が嘉禄3年(1227)成立の『天王寺秘決』(注13)に次のようにみえる。一、聖霊会御影事十六歳合戦之時影像歟。記云、皇子年十五六間、束髪於額、十七八間、分為角子。今亦然云々。若非十六歳ノ比歟。聖霊会の御影は、聖霊会で使用される本尊であるが、先行研究では「童像」と考えられている(注14)。その像容に対して「十六歳合戦の時の影像か」と、断定はしないながらも、具体的な年齢として十六歳が記される。『日本書紀』用明天皇2年(587)7月条(注15)を引用し、結論として「もしくは十六歳のころにあらざるか」と、十六歳ではない可能性も記述する。
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