― 264 ―この記事は『民経記』の太子廟十六歳像記事と一年しか変わらず、この時期に十六歳という年齢がクローズアップされてきたことがうかがえる。つまり、この段階では、孝養像と思われる太子像は四天王寺と太子廟の2ヶ所に存在していたらしい。藤原兼光が拝した「十六御影」が現存像に当たるかどうかは確定はできないが、叡福寺像が「十六御影」の姿を踏襲していることは十分に考えられる。聖霊会の本尊も十六歳と考えられていることから、嘉禄2、3年までには、孝養像=十六歳像とみなす思想があったと考えられよう。四天王寺と慈円聖霊院の聖徳太子像が十六歳像に充てられる頃、その背景には四天王寺別当としても活躍した慈円(1155~1225)(注16)の存在が注目される。慈円の聖徳太子に対する信仰は篤く、それを示す逸話は聖徳太子からの夢告や四天王寺への和歌奉納など枚挙にいとまがない。慈円の四天王寺別当就任期間は、承元元年(1207)11月から翌年までの1年間と、建暦3年(1213)9月12日から亡くなるまでの12年間である。1回目の就任期間では目立った業績はみられないが、2回目は、四天王寺における法会や伽藍の整備をおこなった(注17)。特に聖霊院懺法は慈円と太子の関係を考えるうえで重要である。この懺法を実際に修していたことは「難波百首」(『拾玉集』所載)の後記よりわかり、慈円が作成したと考えられる講式「皇太子五段歎徳」(注18)がある。この百首は、建保7年(1219)正月に四天王寺で詠んだ約百首の通称である。この百首を詠むきっかけとなったのが、同月1日に聖霊院での懺法を終えた直後に、同行していた者が聖徳太子の宣託を聞いたことである。注目すべきは、一連の出来事中に太子像に関する記述が見出せることである。そもそもの始まりはこの1年前に順徳天皇中宮立子(九条良経の娘)の御懐妊が判明したことで、皇子誕生を祈るために、まず聖霊院に3首の和歌を奉納したのである。慈円はそれらを空印律師に託し、7日間毎日聖霊院で詠ませたところ、空印は次のような夢を見た。其間夢云、自御殿内女房召此哥、御覧了、返給云、可焼進常灯云々、即焼之了、取其灰令持参、女房仰云、可奉懸御躰云々、律師、随其命奉散懸之了、(注19)
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