tsuto
275/639

― 265 ―夢に、聖霊院の御殿の中から女房が出てきて、この歌をみて、これらを同院の常灯の火で焼いて御躰すなわち太子像にかけよと命じたというのである。空印はこの夢告のとおり、太子像に灰を散じかけた。この太子像は、前述した聖霊院の本尊「霊像」にあたると考えられ、懺法の本尊でもあっただろう。この願が太子に届いたのか、望み通り立子は懐成皇子(のちに仲恭天皇)を産んだため、慈円はその御礼の意味合いも込めて「難波百首」奉納を行い、ますます太子への信仰を深めていった。慈円のもつ太子像のイメージを考えるとき、『愚管抄』の記述は見逃すことができない。『愚管抄』には聖徳太子の特定の年齢についての記述が数所みられ、そのうち2ヶ所が十六歳なのである。1ヶ所にはこうある。仏法ヲウケヨロコバザリシ守屋ノ臣ヲバ、聖徳太子十六ニテ蘇我大臣ト同心シテ、タゝカイウシナイテ、仏法ヲオコシハジメテ、ヤガテ今ニイタルマデサカリナリ。(注20)聖徳太子が十六歳のときに、物部守屋を蘇我馬子とともに滅ぼしたことから、仏法が隆盛し今にいたるまで盛んであるとし、太子十六歳という年が仏教興隆のきっかけとなる記念の年であったことを強調する。いうまでもなく四天王寺は守屋合戦の戦勝祈願として四天王に誓いを建て、建立した寺院としても知られる。四天王寺別当であった慈円が太子十六歳の仏法興隆のきっかけをつくった時期を重視していると考えれば、太子に対するイメージも十六歳の姿、つまり孝養像であったとみてよいのではないだろうか。聖霊院の本尊はこれまで四十九歳像と考えられてきたが、想像をたくましくすれば、孝養像であったと推測される。さらに、『天王寺秘決』は四天王寺における独自の太子信仰に関する記述がみられることから、同寺住僧が記したと考えられており、とすれば、別当慈円の思想に影響を受けていることはほぼ確実であろう。おわりに以上、四天王寺聖霊院と聖徳太子廟の聖徳太子像を中心に論じた。鎌倉初期の太子信仰の担い手である別当慈円が、同院の本尊に対して十六歳という仏法興隆のきっかけになった年を充てた可能性について指摘した。太子廟像も十六歳と呼ばれていることから、13世紀前半には孝養像に十六歳を充てることは貴族社会の中ではある程度浸透していたのだろう。

元のページ  ../index.html#275

このブックを見る