― 266 ―私見が認められるなら、寛元5年(1247)の埼玉・天洲寺像や文永5年(1268)の奈良・元興寺像などの孝養像も、銘記には記されないものの十六歳像としてつくられたものとみられよう。そして、上宮会像の造像銘にはモデルになった根本像の存在を示唆していることから、いずれも当時信仰の篤かった太子像を模刻した可能性は十分考えられる(注21)。やや時代は下るものの、文永8年(1271)11月6日には、後嵯峨法皇が亀山殿に四天王寺の金堂を模して多宝院を建立し、救世観音像や太子御影像などを安置した(注22)。四天王寺に安置された太子像は模刻の対象であったことがわかり、中世における孝養像の根本像として四天王寺聖霊院の2軀や太子廟像を想定することも可能ではなかろうか。注⑴ 孝養像の形式分類をおこなった主な先行研究は、石田茂作編『聖徳太子全集』5(龍吟社、1943年)、田中重久『聖徳太子絵伝と尊像の研究』(山本湖舟写真工芸社、1943年)、石田茂作『聖徳太子尊像聚成』(講談社、1976年)などがある。孝養像には細かな形式の違いがあるが、ここではこの問題には立ち入らない。⑵ ①藤岡穣「聖徳太子孝養像の成立と展開─彫像を中心に─」(大阪市立美術館監修『聖徳太子信仰の美術』、東方出版、1996年)、②藤岡穣「聖徳太子像の成立─四天王寺聖霊院像を基点とする太子像の史的理解のために─」(『文学』11─1、2010年)。⑶ 注⑵の藤岡②論文。なお、十六歳像が「孝養」と形容されるのは、文保元年(1317)頃成立した『文保本太子伝』に「十六歳御影人奉名孝養御影」とするのが初例であることから、十六歳=「孝養」像の成立は鎌倉末期とされてきたが、この問題についてはここでは触れない。元亨4年(1324)の奥書がある堂本家本聖徳太子絵伝の十六歳の場面に孝養像の太子が描かれることから、鎌倉末期には十六歳孝養像のイメージは定着していたと思われる。⑷ 山本勉・小久保芙美・神野祐太・伊波知秋「東京・上宮会所蔵聖徳太子孝養像考」(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』35、2014年)、山本勉「聖徳太子像(上宮会)」(『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代造像銘記篇11、中央公論美術出版、2015年)。この像は昭和11年(1931)に焼損し、現状は頭部前面をはじめその後の修理で改変された姿であるが、焼損前の写真が残る。⑸ 石川知彦「叡福寺の仏教美術」(大阪市立美術館編『聖徳太子ゆかりの名宝~河内三太子:叡福寺・野中寺・大聖勝軍寺~』、NHK大阪放送局、NHKプラネット近畿、読売新聞大阪本社、2008年)。⑹ 福山敏男「初期の四天王寺史」(『仏教芸術』56、1965年)。⑺ 井上光貞・大曾根章介校注『往生伝 法華験記』(岩波書店、1974年)。⑻ 伊東史朗「総説 広隆寺聖徳太子像の概要と諸問題」(伊東編『調査報告 広隆寺上宮王院聖徳太子像』、京都大学学術出版会、1997年)、注⑵の藤岡②論文。⑼ 宮内庁書陵部『九条家本玉葉』11(宮内庁書陵部、2007年)。⑽ 黒板勝美編『吾妻鏡』前篇(吉川弘文館、1932年)。⑾ 注⑻の伊東論文。⑿ 注⑵の藤岡②論文。
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