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― 267 ―⒀棚橋利光編『四天王寺古文書』1(清文堂出版、1996年)。⒁注⑵の藤岡②論文。⒂「是時、厩戸皇子、束髪於額、古俗、年少兒年、十五六間、束髪於額。十七八間、分為角子。今亦然之。而随軍後。」(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』下、岩波書店、1965年)とあり、やや字句の違いはある。該当箇所は、物部守屋の合戦の場面である。⒃慈円と四天王寺に関しては、①川岸宏教「四天王寺別当としての慈円─御手印縁起信仰の展開─」(『四天王寺学園女子短期大学研究紀要』6、1964年)、②川岸宏教「聖徳太子讃仰の文学・芸術─とくに慈円の聖霊院懺法を中心として─」(『日本仏教学会年報』38、1973年)、多賀宗隼『慈円の研究』(吉川弘文館、1980年)ほかを参照。⒄聖霊院にある絵殿の再興もその一つに挙げられる。絵殿については、阿部泰郎「四天王寺をめぐる聖徳太子伝と絵伝─霊地を創る太子」、村松加奈子「聖徳太子絵伝の制作拠点に関する一考察―四天王寺と法隆寺を中心に」(阿部泰郎編『文化創造の図像学 日本の宗教空間と身体』〔『アジア遊学』154、勉誠出版、2012年〕)ほかを参照。⒅注⒃の多賀著書に全文が翻刻される。この講式は『愚管抄』の記述と類似する箇所があるため、慈円の作と考えられる(注⒃の川岸②論文)。⒆慈円和歌研究会『慈円難波百首全釈』(風間書房、2009年)。『拾遺往生伝』巻上、仙命伝中に、太子像の前で燃指供養した記事がみられるが、これも聖霊院の灯明でおこなわれたと推測される。『赤染衛門集』にも同じ灯明のことが歌われることから、亀井水と同じように太子にまつわる聖遺物に準じるものとして尊重されたと思われる。⒇岡見正雄・赤松俊秀校注『愚管抄』(岩波書店、1967年)。� 平安時代の太子信仰隆盛のきっかけとなったのは、寛弘4年(1007)に四天王寺金堂の塔中から御手印縁起、天喜2年(1054)に聖徳太子廟の近辺から太子御記文なる石碑が相次いで発見され、いずれも当時の貴族達の注目を集めたことだろう(林幹弥『太子信仰─その発生と発展』評論社、1972年)。その流れを受けて造像された元永3年(1120)の広隆寺上宮王院像は、伊東史朗氏が指摘しているように、もともと孝養像であり四天王寺聖霊院像を参考にした可能性がある(注⑻の伊東論文)。その考えが認められるならば、平安後期の鶴林寺像や平安末期頃といわれる大聖勝軍寺像などの像もほぼ同様であると思われる。ただし、平安時代以前の太子廟像についての史料はなく、詳細がわからないことを付記しておく。 なお、九条兼実が同院御影堂に参詣した際に、「禄被物一重」を奉納していることから(『玉葉』文治3年〔1187〕8月23日条)、想像をたくましくすればこの衣は太子像に着せるもので、像は裸形着装像であった可能性も考えたくなる。� 『五代帝王物語』、『一代要記』、『増鏡』ほか。図版図1 『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代造像銘記篇11(中央公論美術出版、2015年)より複写。図2 石田茂作編『聖徳太子全集』5(龍吟社、1943年)より複写。図3 近藤本昇『聖徳太子と叡福寺』(ぎょうせい、1983年)より複写。

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