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― 18 ―着用が例外的であることに触れ、「腰刀之和美奇麗超上古。剰鐔刀等被帯人々見及候。武官全盛之世候歟」と鐔のある刀装について批判的な見解を示し、同時にこうした刀装が通常の腰刀よりも格式が低く認識されていたことがうかがえる。丸山伸彦氏は、武士の公服が直垂、大紋、素襖とともに、肩衣が組み込まれていく過程の要因に、戦時の実用性とその普及があることに言及されているが(注22)、この展開は腰刀においても同様である。例えば、「宇喜多能家像」(重要文化財、大永4年(1524)賛、岡山県立博物館)など従来までにあった直垂、大紋などの服装の肖像画には、柄巻がなく笄を装着した合口造の腰刀が描かれている場合が多いが、その一方で、弘治3年(1557)賛の「西村藤兵衛像」(香川・多門院)などの肩衣姿の肖像画では、柄巻の腰刀を指している。ただし、こうした推移は多様で緩やかだったと考えられ、天正11年(1583)に描かれた愛知・長興寺の肩衣姿の「織田信長像」の腰刀は、合口造で笄を装着するものの柄巻がみられ、阿蘇神社の阿蘇惟豊(1493〜1559)が寄進したと伝える「銀銅包腰刀」は、柄巻がないものの西円堂の腰刀と同様に指裏のみに櫃があり、従来からの腰刀の形式と戦時の刀装の形式が折衷された例がある。なお、阿蘇神社の腰刀は、栗形から返角までの長さが9センチ程であり、西円堂の腰刀の同箇所が7センチ前後、16世紀後半の制作で豊臣秀吉の指料と伝える「朱塗金蛭巻脇指(同大小のうち)」(重要文化財、東京国立博物館)〔図4−9〕のそれが12.2センチと、両者の中間の値を示し、腰刀の形式推移が寸法からも認められる。この後、柄巻があって鐔をともない、指裏のみに櫃を設け、大小の小刀である脇指の形式が完成するのは、前述の「朱塗金蛭巻脇指」〔図4−9〕をはじめとした永禄〜天正年間頃(1558〜1592)と推定されているが(注23)、これは当世具足の関東における形式完成期(永禄年間末期から元亀年間(1570〜1573))と重なり(注24)、中世末期に形式的に完成した武器・武具が近世において規格化する展開は、武家服飾のそれと同様のようである(注25)。装飾表現は、上記の実用性に端を発する特徴を持つ刀装は、所用者の階級の問題はあるものの、西円堂の腰刀が質実なものである一方、鮫皮を模した金銅板を柄に巻き、鞘に銀色の板を巡らす先述の「銀銅包腰刀」や、「朱塗金蛭巻脇指」は総体に華麗なもので、安土桃山時代に至る強い装飾性は変わり兜に代表される他の武器・武具と同様の推移をみせる。また、刀装具では三所物がこの頃までには大小の大刀となる打刀に多く装着され、制作当初より目貫・小柄・笄を一具とする三所物が、室町幕府より時の為政者に仕えた後藤家では五代・後藤徳乗(1550〜1631)の頃から一般的にみられるようになり(注26)、この頃には笄の長さがほぼ20〜21センチ程になって一定し

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