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― 283 ―《ゲッセマネの祈り》のために素描を準備したとされ、グループにおける抜きんでた役割を担っていた(注6)。ルドヴィコ・カラッチは直接関わったわけではなく、おそらく保証人もしくは仲介の役割を果たし、アルバーニを推薦したとされる。カラッチのパラッツォ装飾に続き、17世紀に入ってからのボローニャの聖堂、オラトリオ、回廊のフレスコ装飾はカラッチ・アカデミーの若者たちがほぼ独占することになるが、サン・コロンバノ聖堂のオラトリオはその最初の記念すべき事業だった(注7)。各場面はモノクロームで描かれた預言者の見せかけの彫像で区切られており、物語場面を縁どる描かれた建築の開口部は長辺には楣式、短辺には拱式構造が用いられ、その上隅には少年たちがリボンや花綱とともにアクロバティックな体勢で浮かんでいる。このような着想はそれまでにカラッチが手掛けていたファーヴァやマニャーニのパラッツォ装飾との影響が指摘されている。制作年代に関しては碑文に「聖年1600年」と読めるので聖年の完成を目指して制作されたと思われる(注8)。サン・コロンバノのオラトリオを機にカラッチ・アカデミーの若者たちはボローニャの装飾事業において優位に立つが、その理由には同オラトリオが直接的ではないにしろボローニャ大司教アルフォンソ・パレオッティと関わりがあったことも想定される。『聖俗画論』で有名なガブリエーレ・パレオッティ枢機卿の遠戚であるアルフォンソは、ジョヴァン・フランチェスコ・パレンティという「預言者・幻視者」に絶対の信頼をおき、助言者としてボローニャに連れてきていた(注9)。このパレンティが創設したのが、オラトリオ・ディ・サン・コロンバノを祈祷所としていたオラツィオーネ信心会である。しかしながら正式に規約が承認されたのは1597年に大司教となったアルフォンソ自身による。アルフォンソとパレンティの出会いはローマの聖フィリッポ・ネーリのもとでの宗教生活であったが、アルフォンソはボローニャにおいてオラトリオ会で実践されていた毎日の聖体拝領及び音楽のある説教や祈りを取り入れたいと考えていた(注10)。マシーニによると、オラツィオーネ信心会の会員たちは毎日曜日に宗教的議論を交わし、音楽とともにロザリオを唱え、5時間祈っていた(注11)。アルフォンソは1531年にボローニャで生まれ、市民法と教会法を修めて2年間ボローニャ大学で教鞭を執り、その後ローマに赴いて教皇庁控訴院の裁判官を目指すが失敗する。そして大病を患ったのをきっかけに聖フィリッポ・ネーリのもとに身を置き、回心したアルフォンソは精神生活を心がけ、告解と聖体拝領の毎日を送った。パレンティもまたフィリッポ・ネーリの導きで悔悛した者であったが、幻視を見る人と

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