― 284 ―して知られていた。ここでアルフォンソは、パレンティから兄弟の戦死を事前に知らされるなどしたため、「幻視者」を介しての啓示を信じるようになった。アルフォンソは1571年に叙階を受けたが、それは聖母の助言に従ったものであり、1573年に枢機卿の要請に応じてボローニャで司教座聖堂参事会員となったときもパレンティと連れだって来た。パレンティはしばしばキリストと聖母からアルフォンソが果たすべき使命を聞き伝えており、ボローニャにおいてもアルフォンソは助言者の幻視や預言を書きとめていた。ガブリエーレ・パレオッティ枢機卿はアルフォンソが聖職者になったことを喜んで呼び戻すものの、あまりにも熱心に人々の回心に努める姿に疑念も抱いており、その熱意を自制するよう警告もしている(注12)。またボローニャの聖職者たちは枢機卿の親族として帰ってきたアルフォンソが熱狂的に勧めるさまざまな宗教的発案によい感情を持っていなかった。それが影響してか、アルフォンソの昇進は遅い。1583年に任命されたのは司教座聖堂大助祭であり、1591年にようやく相続権のある司教代行となるが、最終的な権限は枢機卿に残されたままであった。アルフォンソが正式に大司教となるのは枢機卿が亡くなった後の1597年で、1610年の死までボローニャ教区を治めた。大司教とその助言者にとってオラツィオーネ信心会はボローニャの人々の回心のために必要なものであり、オラトリオはその活動の場として重要視されていたにちがいない。それゆえその装飾において祭壇壁に選択された3場面は二人と信心会にとって特に重要なものだったと考えられる。祭壇画はアルバーニによって描かれた《聖母に現れる復活したキリスト》〔図2〕である。パレンティの幻視に特によく登場したのが聖母であり、アルフォンソは常に聖母に導かれ従っていた(注13)。そのためマドンナ・デッロラツィオーネ信心会には聖母に対する特別な信仰があり、聖書に典拠はなくとも敬愛する聖母の前にまず最初に姿を現したと教父たちが考えたその主題を採用したと考えられる(注14)。祭壇右の《ゲッセマネの祈り》〔図3〕は信心会の名前の通り長時間費やしたオラツィオーネ(祈り)と対応するだろう。祭壇左の《キリストの埋葬》〔図4〕で印象的なのは悲しみに暮れる聖母に抱えられる弛緩したキリストの身体、足の傷を観者に示すマグダラのマリア、そして聖骸布である。ここに《埋葬》が選択されたのはその聖骸布のためだと考えられる。というのもアルフォンソ・パレオッティは聖骸布に関する著作で後世に名を残しているからである。聖骸布は1578年にシャンベリからトリノに移され、その重要性が注目されるように
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