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― 285 ―なり、アルフォンソは1598年に『聖骸布注解』を著した(注15)。翌1599年に刊行されたその第2版は増刷を重ね、多国語に翻訳されてヨーロッパ中に普及する。アルフォンソは1582年にガブリエーレ・パレオッティ枢機卿やカルロ・ボッロメーオ枢機卿とともにトリノの聖骸布を実見しており、その所見をまとめたものされている(注16)。しかしながら改訂版では、タイトルにおいて初版にあった「隠された多くの傷と釘の数の事実」の文言が抜けているのと同じくそれらに関する考察も削除されている。アルフォンソの自伝によると、キリストの受難に関するアルフォンソ独自の考察は伝統から逸脱しているとして教皇庁の検閲が入ったという(注17)。たとえば初版102頁「16章、主の手の傷について」にあるアルフォンソの考察は、聖骸布において裂傷は手の甲ではなく、「解剖学者によって手根と呼ばれる腕と手の接合部に見られる」というものである。釘では身体を支え切れず、重みで手が裂けることもあったので、「ローマ人たちは身体を支えることができるように手を釘で打ちつけるときは骨がより硬い部分に向かって釘を打っていた」。キリストの場合も「釘は手を貫くときまっすぐではなく横に」打ち込まれたので「釘の先は手の外側では関節の間に出てきた」とある(注18)。確かにトリノの聖骸布では血痕は手首近くに見えるが、伝統から逸脱した描写は自ら告白するようにパレンティの見た幻視に影響を受けた記述であった。上述の自伝では幻視や啓示という言葉が散見され、神と聖母の意志に従って1590年から『注解』を書き始め、聖母自ら聖骸布の説明をしたとある(注19)。また、パレンティの幻視から得られた細部描写は教皇庁の検閲に従って対外的には取り払ったが、アルフォンソはそれすらも神の意志であり、最期までパレンティの幻視の方が事実であると信じていた。オラトリオにおいて聖骸布が印象的な《埋葬》は祭壇画の左隣という重要な位置にあり、描いたのは装飾事業において重要な役割を担ったアルバーニであった。しかしながら、画面においてはアルフォンソが啓示を通して身に付けたキリストの遺骸に対する独自の見識は一見すると了解されない。その代わり、通常大きく提示されるはずの釘の跡のあるキリストの手は、曲げられた手の短縮法によって巧妙に隠されている〔図5〕。手の傷が伝統的なイコノグラフィの通りに手の甲にあるか、アルフォンソの主張に沿うような手の付け根にあるかが敢えて伏せられているようである。また、手の傷と同様に第2版で削除された箇所に足の釘に関する記述がある。初版119頁19章のタイトルの最初にある「釘の数」が改訂版では削除されている。初版では右足には二つ釘の跡があると言い、聖ブリギッタの足に釘が2本使われたという引用の後、その方法を述べる。「彼らは最初に右足だけ釘で突き刺し」、「その上に左足

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