― 304 ―と共に会員となられた」とあるためである(注3)。初期の会の状況については、52年の『文化史懇談会』の第1号で、歴史学者の川崎庸之が、「懇談会の生いたち」と題し、次のように回想している。美術史の研究家と歴史の研究家とが集まつて定期的な会合をもつようになつてから、はやくも二年という年月が経つた。もともと両方の有志の会合で、その間に何ら煩わしい規約もなく、会員の資格などという煩わしいことは全然考えられていなかつたが、それでも二年という年月が経つ間には自然一種の雰囲気もでき、多少他の集まりからは区別される色彩もでてきたようである。(注4)文化史懇談会が最初、美術史学者と歴史学者の共同の有志により、私的で緩やかな集まりとして始められたことがうかがわれる。・運営の形態上述のように、当初の文化史懇談会は、有志の研究者たちによる私的な会だったと思われる。だが会は、次第に規模を拡充させていったようである。52年9月の『文化史懇談会』では、「懇談会に会員制度ができましたので、会員の皆様から会費をお納めいたゞきたく思います」という告知が行なわれた(注5)。この頃から会費制による運営を行なったようで、同人内での私的な会合が、徐々に制度的な厳格さを持ち始めたことがみてとれる。では、このような会の運営は、誰によって行なわれていたのか。実務担当者を全ての年度で把握することはできないが、一部の年度は役員人事が『文化史懇談会』で報告されているため、それを知ることができる。たとえば55年4月の『文化史懇談会』には、55年度の事務局員として、「事務局長 吉沢忠」、「編集 色川大吉(責任)」という記載がある(注6)。「編集」は、『文化史懇談会』の編集係を指すと思われる。事務局長を美術史学者の吉沢、会誌編集を歴史学者の色川が分担していることには、美術史学者と歴史学者の共同研究会という、文化史懇談会の性格がよく表われている。会長を務めた人物も、判明するのは一部の年度に限られる。ただ少なくとも、1954年に、田中一松が会長に就任していたことは確認できる。前掲した55年の『文化史懇談会』の田中の略歴に、「(引用者―昭和)二九年文化史懇談会々長に就任」とあるからである(注7)。一般の会員として誰が参加していたのかは、総括的な会員名簿等が見当たらないた
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