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― 306 ―田中一松の還暦祝賀会も併催された。忘年会では、57年には吉沢忠の漫才と、ラブレター付マスコットの交換、59年にも、ラブレター付プレゼントの交換が行なわれたようである。50年代後半になっても、会が学会組織ほどの厳格なものではなく、発会当初の私的な性格を、残しつつ活動していたことがうかがわれる。・活動2─歴史学系の学会・研究会との連帯第2は、歴史学系の学会・研究会との連帯である。たとえば1952年に、歴史学研究会は「民族の文化について」をテーマとして大会を行なった。これに際し、同会からの連絡が、『文化史懇談会』誌上で次のように掲載されていた。われわれに残された一切の文化遺産を通じて祖先の努力、民衆の創造的な力を具体的に究明しようという目標をめざして委員たちははり切っているが、今度の問題で一番大切な分野である、美術等の芸術の分野について委員たちはサッパリ何も知らないので、文化史懇談会の方々にいろいろ教えていただきたいし、大会の討論はもちろん、大会後も指導と協力をお願いしたいと希望している。(注9)歴史学の学会である歴史学研究会の側にも、文化史懇談会に学際的な連帯を求める姿勢があったことがうかがわれる。さらに1955年には、文化史懇談会と日本近代史研究会との共催で、野球の試合と運動会も開かれた。『文化史懇談会』によると、場所は東京芸術大学のグラウンドで、参加者の総計は50名、パン食競争や、夫婦レースなどが行なわれたという(注10)。なお野球の試合は5回戦で、結果は14対12敗で文化史懇談会の敗けだったという。こうしたレクリエーション的な活動を通じても、美術史学と歴史学の学際的連帯がはかられていたといえる。・活動3─図書出版続いて第3に、図書出版の企画を指摘したい。文化史懇談会は会での研究成果を、たびたび図書での出版に結実させていた。そうした図書出版の嚆矢となったのは、1952年刊行の田中一松編『日本の美術』(毎日新聞社)だった。同書は田中のほか、米沢嘉圃、小林剛、蓮実重康、吉沢忠、河北倫明ら、当時の日本を代表する美術史学者たちが執筆にかかわった、日本美術史の通

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