― 308 ―「わび」「さび」的伝統論では説明できないで、これ迄誤解されたり無視されたりしていた作家や作品が、各時代を通じて存在することは事実で、それらを社会的基盤の側や、作家の主体性の側から、実証的に検討して見る事が我国の伝統についての、創造につながる本当に正しい認識を得る為に必要ではないでしょうか。この点に関して、北斎など幕末の画家たちや寛永時代の風俗画に見られる奇妙な心理の歪み、北野天神縁起(承久本)の持つ不思議なエネルギー、雪舟、貞観仏、養源院の宗達画、室町末の浜松図屏風など、テーマはいくらでもあります。(注14)辻が「奇想の系譜」を『美術手帖』誌で連載するのは、この約10年後の1968年である。上掲引用部の「これ迄誤解されたり無視されたりしていた作家や作品」への注目などには、そこに繋がる発想も感じられ、興味深いアイデアを綴ったエッセイといえる。(3)史学化志向と文化史懇談会このように、歴史学との連帯のもとで、様々な活動を行なった文化史懇談会だったが、そうした歴史学との学際的な連帯の背景には、何があったのか。本稿ではそこに、美術史学で30年代から起こっていた、史学化志向があったことを指摘したい。同志向の詳細については、前述のとおり別稿で論じたため、本稿では詳論しない(注15)。ただ、同志向の展開経緯を簡潔にまとめれば、次のとおりである。まずそもそも、1920年代までの美術史学では、美術史学を歴史学から差別化されるべきディシプリンとして考える認識が主流だった。これは美術史学が、帝国大学の教育課程で、史学ではなく哲学の下位分科に位置づけられていたことや、法隆寺再建非再建論争で、文献史学と対立的な関係にあったことが理由だった。しかし30年代以降、美術史学では、文献史料の分析により学術的精度を向上させる必要性が、積極的に主張されるようになる。さらに40年代には、大和絵の研究で48年に日本学士院恩賜賞を受賞した家永三郎の影響もあり、歴史学の方法論や成果に学ぼうとする姿勢が、美術史学界でも一般的になりつつあった。そして前述のように、50年代には美術史学会の学会誌『美術史』誌上で、家永が「美術史学を歴史学として確立しようとする科学的態度」を推奨する、“「美術史学の対象」論争”も起こる。そうしたなかで51年度には、文部省科学研究費交付金の受給カテゴリで、前年度まで哲学の下位分科だった美術史が、史学の下位分科に移転した。こうして50年代には、美術史学は歴史学と親和的なディシプリンであるという認識が、学界内でほぼ定着しつつあった。このように30年代から50年代の美術史学では、歴史学に接近し、歴史学との関係を
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