― 312 ―(2) 発願文の解読ここからは、本図のなかに記された発願文を解読し、その内容を確認していく。冒頭部分をみると、成化13年丁酉、すなわち成宗8年にあたる1477年に、明淑公主と駙馬洪常によって発願されたことがわかる。発願当時の王室系譜をみると、明淑公主は徳宗と昭恵王后との娘であり、当時の王、第9代成宗の姉である。願主である明淑公主と駙馬洪常は、「上は聖を祝し、下は己身に及んで」つまり成宗から自分に至る一族繁栄の願いを込めて「弥陀會図」、「藥師會図」、「熾盛光會図」、「□□觀音」、「倚岩觀音」の5幀を発願したことがわかる。「倚岩觀音」の前にあげられる観音図は、上に続く文字が欠失しているが、わずかな金泥の痕跡とその後にみる文脈から、「千手觀音」の可能性が推測される(注5)。ここに記されている5点の作例のうち現存している作例は、「藥師会図」にあたる本図だけであるが、いずれも病気治癒や苦難からの救済、延寿と関わるものである。なお、画記の後半部には、仏の功徳を讃える内容が記され、発願者の強い信仰心が看取される。そもそも、本図の中尊である薬師如来は、朝鮮王朝時代においても病を癒し、苦しみを除く仏として広く信仰されていた。朝鮮王朝実録にみられる王室における薬師信仰の記録をみると、香を焚き、立ち上る煙を浴びて供養する儀礼などが記されており、これに王や世子が直接参加していたという史実から、王室においても非常に重要な信仰の一つであったようである。本図にみる前机に描き込まれている香炉と香入は、こういった儀礼を反映したものと考えられるものであろう(注6)。また、病気治癒や苦難からの救済、延寿などの仏事の性格から、発願の契機について当時の王室が置かれた状況に照らして考えてみたい。本図が発願された頃、発願者の明淑公主は、病床にあったことが注目される。王室は、明淑公主の病の回復のため、 温泉地温陽に供に向かった洪常に手紙を送り、早く戻ってくるよう訴えている(注7)。手紙が3月5日に書かれたことから、少なくとも3月の以前には2人は温陽にいたことがわかる。つまり、本図の発願目的には、王室の安寧を願うこととともに、当時病床に伏していた公主の快復を望む祈願も含まれていたと考えられる。以上、本図の図様と発願文を考察したが、本稿で特に注目したいのは、如来の形姿にみられる尖頭形の肉髻、面長の顔、細くしまった腰、偏袒右肩の表現、いわばチベット的要素である。このような表現は、弘治3年(1490・成宗21年) 昭恵王后によって発願されたと判断できる《五仏会図》(兵庫・十輪寺)の釈迦如来〔図2〕と薬師如来に、また弘治年間に制作された《六仏会図》(三重・西来寺)の阿弥陀如来、薬師如来〔図3〕、熾盛光如来、釈迦如来の形姿に共通して具わることが確認でき、15世
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