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― 314 ―入した可能性を考えてみる必要がある。ここからは、単なる一般の現象ではなく、廃仏が度々おこなわれた朝鮮王朝において、どのような経緯で明の経典や変相図を求めることができたのかを検討していく。前述したとおり、現存する朝鮮前期仏画において、新しい要素が顕らかになるのは、とくに1460年代から90年代の間である。これを念頭において当時、王室仏事の重要なパトロンであった昭恵王后とその周辺に目を向けてみたい。昭恵王后は、繰り返しになるが、本図が発願された1477年時点、王位にあった成宗、そして本図の願主である明淑公主の母にあたることでも重要な意味をもつのであろう。3.新しい要素の定着─昭恵王后周辺をめぐって昭恵王后(1437~1504)は、朝鮮王朝の有力な家門に数えられた淸州韓氏を出自とする。父韓確(1403~56)は、文官の最高位とされた領議政府事まで官界を登りつめ、強大な権力を誇った。父の権勢を背景に、昭恵王后は、世宗32年(1450)、首陽大君(後の世祖)の長子桃源君に入嫁した。世祖元年(1455)、首陽大君が甥の端宗から王位を簒奪して第7代世祖として即位すると、昭恵王后は世子嬪となったが、夫の桃源君が王に即位することなく病死したため、王妃に至ることなく一時実家に戻された。しかし成宗元年(1470)、次子が王に即位したことで再び宮廷に戻り、大妃として権力を振るうことになった(注9)。昭恵王后は、燕山君が徹底的な廃仏をはじめる燕山君10年(1504)まで、世祖の王妃で成宗の大王大妃貞熹王后(1413~83)とともに、この間の王室における仏事の実質的なパトロンであった。その仏事については後述するが、彼女が重視されねばならない今一つの理由は、その親族が明との直接的な人的ネットワークを形成していたことにある。朝鮮王朝は、高麗末期の仏教による政治腐敗という弊害を防ぐため、 仏教を排斥し儒教を崇めるという国家の理念を打ち立ていた。その中に在りながら昭恵王后は、世祖と貞熹王后とともに主導的に仏教の造像活動を続けており、仏教に深く帰依していたことがうかがえる。記録上、昭恵王后による最初の仏事は、宮廷に入った直後20歳に『妙法蓮華経』(韓国梁山・通度寺)を発願したことである。発願文をみると、景泰7年(1456)、東宮の嬪、つまり世子嬪であった昭恵王后が、亡き両親の冥福を願って経典を開版したことを発願文が伝えている(注10)。ここで注目すべき点は、 版本の冒頭を飾る変相図は、15世紀前半の朝鮮王朝における明の経典変相図の翻刻と同じく模倣的な受容をしめしていることにある。ここで、この経典の願主である昭恵王后の周辺環境に目を向けてみたい。昭恵王后

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