― 315 ―の家系を辿っていくと、昭恵王后の二人の姑母は、それぞれ明の第3代太宗、第5代宣宗の妃として納妃されたことが朝鮮王朝実録の記事からわかる(注11)。明は、朝鮮王朝に対して事大の正当性を確認するため、官者や貢女などを進上することを度々要求していた。昭恵王后の父韓確の姉が明の貢女として選出され、明の皇帝の妃となると、韓確の王室における権力は絶大なものとなったはずであろう。太宗17年(1417)、韓確は正朝使として明に向かい永楽帝から重んじられ、『諸仏如来菩薩名称歌曲』百本を下賜され帰国している。韓確が持ち帰った仏書は王室に直ちに入ったが、当時王室では、表向きには廃仏の姿勢であったため、積極的に受容された形跡はない。このころ、王室において仏教の重要なパトロンであった孝寧大君(1396~1486)が発願した作例をみても、高麗仏画の伝統を強く残すもので、明の仏書に納められた最新の図像を採用することは無かったようである。韓確が持ち帰った仏書が広く受容されるようになるのは、40年くらい遅れた第7代世祖の代であった。世祖は王位を簒奪して即位したことから、背徳に対する懺悔の意識で仏事を活発に行いその一環として、世祖7年(1461)、宮廷内に経典を刊行する刊経都監を設置した。そして発願者として仏書の出版に深くかかわっていた人物こそが昭恵王后である。以降10年間存続された刊経都監からは様々な仏書が刊行されたが、そこに納められた版本の変相図には、明からの新しい要素を取り入れたものが多く確認できる。なお昭恵王后は、前述した明皇室に貢妃として入った姑母と長らく書簡をやりとりしており、土産として明の文物を贈られた記録もある(注12)。この中に明の仏書や仏画などが含まれていたのかは判然としないが、朝鮮王室に明の宮廷文化を直接的に伝える窓口として、少なからざる役割を果たしていた点は注目されよう。昭恵王后のもとにもたらされた明からの文物がどのように目に触れ扱われたのか、その状況がうかがえる資料として、昭恵王后によって成化21年(1485)に発願された『仏頂心陀羅尼経』の跋文〔図5〕がある(注13)。跋文の一部をみると、昭恵王后が工人に命じ「唐本」に倣い制作するように命じたことを明記している。この場合の「唐本」が、中国明の原本を指していることは言うまでもない。以上の事例を通観すると、昭恵王后の仏事における造像では、明から将来された文物が規範とされ忠実に翻刻されていた事情がうかがわれる。結本稿では、朝鮮前期の中でも特に15世紀に焦点をあて、この時期制作された仏画にあらわれた新しい変化を、1477年の《薬師仏会図》を中心として考察してきた。とく
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