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― 321 ―として生まれた。本名は金鐘湳(キム・ゾンナム)である。1928年に山清公立普通学校を卒業し、密陽公立農蚕学校に進学するが、一年で中退する。その一か月後である1929年4月に14才で単身で渡日し、旧制京都両洋中学に通うことになるが、朝鮮の学校を辞めてすぐ渡日していることから、もともと留学を計画していたとみられる。しかし、親戚も誰もいない京都に何を学ぶために来たのかは不明である。京都での留学生活は容易ではなく、朝日新聞販売店の配達員をしながら通学する、当時でも珍しい苦学生であったという(注4)。ところが、1933年に一時帰国して描いた「父・金聲培の肖像画」〔図1〕を見ると、京都で美術教育を受けていたのではないかと推定される。1934年3月には、中学を卒業し、上京して日本美術学校西洋画科に入学する。この時、同じ下宿生であった関口一郎は、彼を「金子英雄」という名前で記憶しているが、京都時代からすでに「金鐘湳」という朝鮮名の代わりに「金子英雄」という日本名を使っていた可能性が高い。暫くして所謂「池袋モンパルナス」と呼ばれる豊島区長崎町に移住した。この地域は、アトリエ付き住宅が建ち並ぶ芸術家村であり、隣部屋には麻生三郎が住み(注5)、近くには山下菊二、靉光などが居住し、互いに刺激し合って前衛美術に精進する環境であった(注6)。1937年3月、日本美術学校を卒業し、福沢一郎絵画研究所に通いはじめ、夏期講習会の委員も務めているが〔図2〕、研究生たちは彼のことを真面目で紳士的な人として記憶している(注7)。1938年には、輸入玩具業の浅草丸十商店に玩具デザイナー嘱託となり、約3年間働くが、研究所生活も並行していた。1940年、第1回美術文化協会展に「風景」連作3点を出品、美術文化賞を受賞し、翌年の第2回展には「水辺」〔図3〕を出品し、会員となった。1943年9月には、立川陸軍航空整備部隊に徴用されるが、教育資料として使われる自動爆撃照準機の図面を描く仕事をしていたと見られる(注8)。終戦後、1948年に横田基地information&Education Officeに就職し、その後定年まで英字新聞の編集、割付けを担当した。1950年12月1日、親友の親戚であった真鍋健一、タケ子の養子となり、大韓民国の金聲培の戸籍から移籍し、「真鍋英雄」になった。翌年、日本人の斎藤八重子と婚姻し、その後2男を生む。戦後、彼は韓国の家族を二度と訪問することなく、連絡も意図的に絶えさせたと伝わる。1958年に美術文化協会を脱会して以来、横田基地に勤めながら、毎晩帰宅しては自宅のアトリエで一人で絵を描く生活を送った。専業画家ではなく、発表の場が狭いために対外的に高い評価は得られていなかったが、彼は毎日のように誠実に描いていたという。遺族の所蔵している数十点の遺作は非常に完成度が高く、彼が「日曜画家」ではなく、画家精神に徹した人物であったことを証明している。たまに小さいグループ展に参加する中で、ついに1970年56才で

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