― 322 ―初の個展を開くが、それは福沢一郎による推薦の言葉と共に、横田基地の英字新聞に宣伝記事が載せられた(注9)。退職後の1980年には高山良策との二人展を開き、これからの作品活動の抱負を語っているが(注10)、1986年72才で他界した。二 日本のシュルレアリスム絵画における真鍋英雄の絵画1924年のアンドレ・ブルトンの宣言によって始まったパリのシュルレアリスムは無意識の解放を通じて人間の真の自由を追求したものであり、両大戦の間に世界各地に拡散した。日本では、1930年を前後としてシュルレアリスムから影響を受けた絵画作品が発表されるようになり、31年にフランス留学中であった福沢一郎の帰国と共に、本格的に展開し始めた。彼が応用したエルンストのコラージュ技法は若い画家に大きな影響を与え、独立展から分離して新造型美術協会などの団体を経た後、1939年の美術文化協会に帰結して、その全盛期を迎えた。しかし、1941年には軍国主義の強まりにより福沢が逮捕されることになり、小康状態に入る。10年あまりの短い期間ではあったが、日本のシュルレアリスムは若い画家を中心に熱狂的な人気を集め、様々なバリエーションを見せた。しかしながら、日本のシュルレアリスムは、その不徹底さや思想の貧弱を指摘されている。西欧のシュルレアリスムが前代のダダイズムの反逆精神を継承しているのに対して、日本のそれはダダとは切断されたモダニズムの系統から誕生し、無意識の探求や想像力の解放ではなく、「現実」に関心を向けながらその外形だけを借用するに留まったという指摘である(注11)。その反面、日本のシュルレアリスムが「行動主義的ヒューマニズム」と出会うことで、「外来の思想を受け止めながら、日本の社会の現実と向き合い、独自の展開を遂げた」という肯定的な評価もある(注12)。実際に福沢一郎も、現実の強調のための「手段」としてシュルレアリスム技法を借用しており、その意味において西欧のシュルレアリスムとは厳密に異なると述べており、早くから一線を引いている(注13)。このように、日本のシュルレアリスムは、純粋な無意識の探求よりも、コラージュやデペイズマンなどの手法を借りた現実批判の性格を帯びるか、あるいは純粋にその造形的な興味を追い求める方向へと進んだようである。前者には軍部の弾圧によって解体されたプロレタリア美術の画家たちが合流し、後者には新しい造形を渇望していた若い画学生たちが含まれていた。1936年に会所した福沢一郎絵画研究所にも、両者の画家たちが集まることになるが、真鍋英雄はそうした後者に入る(注14)。真鍋の戦前の作品は、「水辺」〔図3〕と「風景」(1941年)の他に現存する作品は
元のページ ../index.html#332