― 323 ―少ないが、「葡萄」「憩鷲」(1943年)など写真ハガキとして残っている作品を合わせて見ると、画面いっぱいに描かれた動物・植物の描写が共通に発見される。植物の写実的な形態や詳細な描写には、如何なる歪曲も加えられていないが、集約された鬱蒼たる森そのものが与える自然の奇異さが、効果的に表現されている。さらに隅々に隠れた生物は、その完全な形態を読み取れず、グロテスクな感じを漂わせている。彼の遺品の中には、アンリ・ルソーの画集が発見されたが、このような幻想的で原始的な自然の描写において彼の影響が窺える。植物描写を通じた奇異なる雰囲気の演出は、福沢一郎の1938-39年の「花」連作や、同研究所の学生であった米倉壽仁らの作品からも確認できる。このように、真鍋のシュルレアリスム絵画は、暗鬱なる時代の雰囲気を内包してはいるものの、具体的な現実の主題意識を求めるよりは、根源的な造形の興味を追及したものと言えるだろう。三 朝鮮における数少ないシュルレアリスムの画家の一人として次に、朝鮮画壇におけるシュルレアリスム絵画の展開と、その中での真鍋英雄の存在意義を考えてみよう。朝鮮の東亜日報紙上に「シュルレアリスム」という単語が出てくるのは、1930年12月のことである(注15)。当時東京美術学校学生であった金瑢俊は、ピカソの絵画が「キュビスムからフォビスム、そして…シュルレアリスムへと豹変している」といい、現代美術の新思潮を受け止める必要を語っている。しかし、彼は「一種変態的な心理の所有者であると批評家は非難するかも知れない」と心配を寄せている。それは、前衛美術を受容する朝鮮の土壌が、まだ培われていないことを意味した。1936年4月の同紙には、超現実主義の絵画を紹介する記事が載せられており、「非合理的なことを取り扱う」「心的自動作用」であるとその定義を翻訳しているが、最後に「これを読んでも全く意味が分からない」と評している(注16)。さらに、東京美術学校出身の画家・呉之湖はシュルレアリスムを指して、「時代的な旋風に巻き込まれ、精神錯乱が発生したことによる病的現象」であり、すぐ自然消滅すると露骨的に排撃している(注17)。朝鮮で、シュルレアリスムが発展し得なかった理由は何であろうか。1910年代に日本に留学した朝鮮人画家たちを通じて西洋画を本格的に受容し始めた朝鮮は、20年代に至ると、留学生の帰国および朝鮮美術展覧会の開催を通じて日本のアカデミズムが定着した。その後30年代末から終戦までは、フォービスムや抽象などが在野に流入したが、それは全て直輸入ではなく、日本からの経由を通したことであった。一方、「半
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