― 324 ―芸術」を標榜したダダやシュルレアリスムが定着しなかった理由には、新思潮が一歩ずつ遅れて導入される構造的な問題もあったが、破格の存在に耐えられるような哲学的・美術理論的な土台が形成されておらず、何よりもその造形形式が、長い間儒教思想に拘って来た朝鮮人の生理に合わなかったと思われる。30年余りの短期間に、アカデミズムからシュルレアリスムまでという、欧米において長い歴史と共に積み重ねられた思潮を消化するには無理があっただろう。それにも拘らず、その不毛の地の中で、シュルレアリスム絵画を駆使した数少ない朝鮮人留学生たちがいた。文化学院の学生・文学洙や東京美術学校の学生・金河鍵などは、多数の朝鮮人留学生と異なり、官展から離れて前衛的な小グループ展を中心に活動した。まず、文学洙は自由美術家協会で活動していたが、同級生の劉永国と日本大学出身の金煥基が幾何学抽象の作品を出品したのに対して、「馬」や「牛」を素材にしたシュルレアリスム絵画を繰り返し出品し、注目を集めた〔図4〕。彼は第1回展から毎年出品し、第2回展には協会賞を受賞し、朝鮮人としては珍しく会員に推挙された。朝鮮民族を形象化した牛やチマチョゴリを着た人物、朝鮮の古典小説である「春香」をモチーフにした作品で、郷土美の造形化に成功している(注18)。一方、真鍋と同様に美術文化協会で活動した金河鍵は、第2回展から出品し、翌年に美術文化賞を受賞して、真鍋の後を継いで会員になった。現在モノクロ図版で残っている彼の出品作〔図5〕を見ると、幾何学の図形や地平線を強調した理知的構成が目立つ。金英那は、港と机そして図形といった無関係の物の組合せや影の表現に、ダリやキリコの影響を指摘している(注19)。保守的なアカデミズムを追求した東京美術学校で、それも朝鮮人留学生であった彼がシュルレアリスムに傾倒したのは、大変異例のことであったが、興味深いことに同級生の鄭寬澈の卒業制作にも注目すべき共通点が見られる〔図6〕。地平線と浪、転がっている壺と石、そして影の表現から夢幻的な雰囲気を演出しているのである。同年度の西洋画科の卒業生の全員が、慣例の通りに写実的な人物坐像を提出している中で、この二人の作品は異彩を放っている。それでは、このように前途有望な画家であった彼らが、帰国後に朝鮮の画壇にシュルレアリスムを波及する可能性はなかったのだろうか。あいにく、文学洙と鄭寬澈は実家の平壌に帰ったものの、北朝鮮の政府の樹立後、社会主義レアリスムへと急旋回した(注20)。金河鍵もまた実家の青津に帰ったが、朝鮮戦争の際に生死が分からなくなった。このように、朝鮮でシュルレアリスムが発展しなかった理由には、前述したモダニズムの土壌の未成熟と共に、それを積極的に学んだ留学生が少なかった点、そして帰国後に深化されるはずであった活動が、国家の分断などで有耶無耶になって
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