― 325 ―しまった点を挙げられる。その意味で、唯一日本に残って画業を続けた真鍋は、朝鮮人としては最も長くシュルレアリスム画風を維持した画家であり、韓国近代美術史の外枠を広げる人物であると言えるだろう。四 真鍋英雄のアイデンティティこれまでの在日朝鮮人美術家に関する研究は、民族性やアイデンティティに焦点が当てられたものが多い。実際に、彼ら自身が在日としての混乱や葛藤をテーマにして制作するケースが多かった。しかし真鍋の場合はそうではない。彼の戦後の作品を見ると、朝鮮を思わせる郷土的な素材や在日としてのアイデンティティを問うような主題意識は見られない。寧ろ繰り返して登場する壊れた日の丸マークの飛行機や、それに重ねられた彼の顔からは〔図7〕、「敗戦」を想う日本人の心情が感じられる。彼は、「人間よりはるかに貴重な存在で」あった「日本の飛行機」が無残な姿で畑にころがっていたのを見て、その「真赤な日の丸が眼に痛かった」と述懐しているのだ(注21)。1948年に横田基地に就職する際に書かれた彼の身上明細書には「従来、私は日本国籍を持っていたが、終戦後、朝鮮の独立に依り日本国籍を放棄せざるを得なかった。私は日本永住のために養子縁組の方法のもとに、戸籍を移動し、新戸籍を作った」と書かれている(注22)。真鍋は、自我形成期を日本で送りながらその生活と文化に慣れ、また「内地」「外地」と呼ばれた日本と朝鮮を一つの自国として認知していたのかもしれない。それらが分離される時期が来ると、この地に完全に定着するには名前と戸籍が変更されてもいいと決心したのだ。しかしながら、それは決して容易な決定ではなく、彼は韓国の家族との連絡を断ち切るほど、何か固い覚悟をしていたようだ。戸籍を変更したことに関する罪悪感、それと同時に日本で築いた家庭を社会的な障害の無い完全体として守りたい気持ちが、その根底にあったのではないか。彼の名前を考える時に興味深いところがある。「金鐘湳」から「金子英雄」を経て「真鍋英雄」へ。名前を変えるということの意味は何だろうか。名前は一人のアイデンティティと最も密接に関わっているもので、「自分」を指す名称を変えるというのは、見慣れたことから去り、新しい変化を敢行するという意味であろう。真鍋の2回に渡る名前の変更過程は、それ自体、日本に足を付けて住みたいという熱望を強く証明してくれる。彼は戦前の留学生時代から自分のことを朝鮮人ではなく、京都出身の者として紹介し(注23)、当時東京に大勢いた朝鮮人とも交際しようとしなかった。友人・関口が証言するように、彼は「日本の風習と文化に必死に溶け込もうとした」
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