― 333 ―磯田湖龍斎、北尾重政、喜多川歌麿らによって日本風俗の子どもたちに変換されて度々描かれるのである〔図3-1~4〕。これまで日本風俗の子どもを主題として描くことは稀であったため、唐子図像の存在は浮世絵師にとって良い手本となっていたことが推測される。また、初期の子ども絵における題材のヴァリエーションはそれほど多くなく、四季風俗や古典などに題材をとったものの他に、前述した唐子図との繋がりを意識させるような遊びの様子を描いたものが中心となっていることからも、浮世絵師たちが手本としていたものが何であったかを窺い知ることができる。このように、唐子から唐子へ、唐子から日本風俗の子どもへというように、和漢における子どもイメージは、浮世絵師にとって自由に行き来できるものであった。そこにも、子ども絵を多数生み出させ、ジャンルとして定着した一つの要因があるのかもしれない。第2章 「和」からの影響─祐信絵本と子ども絵の繋がり─さて続いて、少し視点を変えて「和」の方向から考えてみたい。初期の子ども絵の中には、前述の『絵本直指宝』と同様に、上方の浮世絵師・西川祐信(1671~1750)の『絵本大和童』や『絵本西川東童』といった墨摺絵本に出てくる図様を借用しているケースが認められる。その数は『絵本直指宝』を超えるほどであり、子ども絵ジャンルの定着を考えるうえで看過できない。この2種類の絵本は、伝統的な日本の月次風俗図から子どもだけを抜き出して描いたかのような作品であり、唐子図から派生した子どものイメージとは異なった流れを持つ。まず『絵本大和童』は、享保9年(1724)に出版された上中下3巻3冊から成る絵本で、上巻のみが子どもの四季風俗を題材としており、中巻は謡曲や連歌などの大人の遊びや稽古事を描いた風俗絵本、下巻は酒呑童子退治や朝比奈門破などを収めた武者絵本となっている。子ども絵の典拠として盛んに活用された上巻には、14丁に14図が収められている。縄暖簾から顔を出す男児の描写から始まり、続いて、見開き12枚の画面に十二ヶ月を割り当て、五節句をはじめ、祇園祭に関連した遊びや鞴祭など上方を中心とした季節の行事や遊びの様子がダイナミックに描かれていく。一方の『絵本西川東童』は、『絵本大和童』の22年後の延享3年(1746)に出版された上中下3巻3冊からなる絵本である。共同制作者の多田南嶺が序文で「正月より十二月にいたるまでの子供わざ見るにつけてもむかし恋しや」と述べていることから、この絵本でも十二ヶ月に亙る子どもの行事や遊び、風俗を描きとめることに主眼を置いていることが分かる。『絵本大和童』のように見開き一画面に一ヶ月が割り当てられているわけではなく、季節の行事と行事との間には、月を特定しない子ども遊
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