― 335 ―にしたシリーズにおいて祐信絵本の図様が使われているのである〔図7-1~2〕。〔一覧〕にあげた50点を越える作品は、寛政期頃までの初期子ども絵の半数とまではいかないものの、かなりの割合を占めている。『絵本大和童』と『絵本西川東童』は、正統的な子ども絵の典拠として認識されていたと言えるが、わずか2種類の絵本からこれだけの子ども絵作品が生み出されていることは見逃すことのできない事実であり、祐信の形作った子どもイメージの影響力の大きさを感じさせる(注8)。では、なぜ浮世絵師たちが手本としたのがこの2種の祐信絵本であったのか。それは、当時他に子ども図像をまとめて集めた絵本がほとんどなかったということや、祐信没後の宝暦・明和・安永期の江戸において祐信画が本格的に流行したことに伴うものであることは言えるだろう。ただ、他にも、祐信絵本が図様を借用しやすい画面構成を持っていたということも考えられる。祐信絵本は、一画面に多くの人数を登場させながらも、優れた人物配置による群像表現がなされていることに気づかされる。『絵本大和童』では視点を近くにとりつつ、ひらけた空間の中、見開き一画面に3つほどのグループに分けて配置するという単純明快な構成をとっている。また『絵本西川東童』では、視点をやや遠くにとり、塀や壁、縁側、畳の直線をうまく用いて画面を分割することで、複数の人物をグループに分けて配置している。こうした構図の効果によって、浮世絵師たちは、図様の一部や複数人のグループをそのまま抜き出したり組み合わせたりするなどのアレンジを行いやすかったと考えられる。その結果、様々なパターンの子ども絵が制作され、子ども絵ジャンルの定着を一層促していったと言うことができる。時代が下ると、江戸の成熟とともに子ども絵もシンプルな画題では収まりきらなくなり、寛政期以降、祐信絵本からの図様借用は見られなくなる。江戸の町が繁栄すると子どもと名所を組み合わせたり、学問への関心が高まると学びの様子を描いたりと題材のヴァリエーションも豊富になり、図様借用から脱却して、現実の子どもの世界を活写した作品が好まれるようになっていく。しかし、それでも十二ヶ月にわたるのどかな歳事や遊びの様子は、祐信絵本に見られる要素を根底に含みながら子ども絵の好画題・主要画題として発展し、後の歌川派らが十二月や五節、四季と名付けて、変化に富む揃物を数多く制作していくようになる。歌川国芳の揃物「稚遊五節句之内」はその好例で、正月風景は三河万歳、上巳の節句は雛飾りの前での食事、端午の節句は菖蒲打ちの遊びといったように、五節句を題材にした作品における絵師の場面選択が祐信絵本と類似しており、定型化している様子が窺える。また、さらに祐信の子どもイメージが忠実に後の時代に受け継がれ定着していることが窺えるのは、雪遊びの
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