― 341 ―㉜ シャーマン・リーと冷戦下のアメリカにおける日本美術受容研 究 者:秋田公立美術大学 美術学部 教授 志 邨 匠 子近年、占領下の美術に関する研究が活発になり(注1)、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)のCIE(民間情報教育局)に設置された美術記念物課の仕事についても、徐々に研究が進んでいる(注2)。しかし同課に勤務していたアメリカ人の日本美術研究者や彼らの帰国後の活動については、まだほとんど調査がなされていない。シャーマン・E・リー(Sherman E. Lee, 1918-2008)もそのひとりである。リーは1946年8月から1948年6月まで、美術記念物課の顧問官(advisor on collections)として勤務した。帰国後は、シアトル美術館副館長、クリーブランド美術館長を歴任し、両館の日本美術コレクションの充実をはかり、多くの日本美術関連の展覧会を企画、担当した(注3)。また1964年に出版された大著『極東美術史』(History of Far Eastern Art)は、2003年に第5版を重ね(注4)、大学の教科書にも使用されていた(注5)。2つの美術館では、リーが収集に関わった日本美術作品が現在も展示され、50年前の著作が現在も読み継がれている。つまり彼の日本美術史観が、今日のアメリカ人にも受容されていると言ってよいだろう。リーの日本美術論の軸となっているのは、日本美術は中国美術の模倣ではなく独自の美術であるという考えである。本稿では、新たに入手した資料から、リーの言説を冷戦下の日米関係のうちに考察する。1.中国美術との差別化リーは一貫して日本美術は中国美術の模倣ではないと述べていた。それは、まず日本から帰国した翌年、1949年11月にシアトル美術館において、自身が企画した日本古美術展において明示された。リーは、同展に際して作成された冊子の冒頭に「日本美術は、しばしば、中国美術の不十分な反映であると言われてきた。この展覧会の目的は、その反対であること、そして世界の美術に対する日本独自の貢献を示すことである」(注6)と述べている。1953年、アメリカ5都市(ニューヨーク、ワシントンDC、シカゴ、ボストン、シアトル)を巡回した日本古美術展において、リーは作品選択の中心的な役割を担った(注7)。その展覧会に際し、リーは以下のように述べている。「ここには、可愛らしいが庶民の生活を誤って描写する木版画や、日本人芸術家を、ミニアチュールの職人などと誤った認識をうながす根付けや印籠はない。後期の茶の湯における誇張された素朴さ(rusticity)は不在であり、狩野派の露骨な装飾性も最
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