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― 342 ―小限にとどめている。ここにあるのは、中国美術の程度の低い模倣に対するもっともらしい言い訳ではなく、日本美術の本当に創造的な面を探し出す試みである。」(注8)このちょうど50年前、浮世絵や根付け、印籠等は、日本美術の本質を示すものではないと声高に主張したのは、岡倉天心であった。天心は『東洋の理想』(The Ideals of the East, 1903)において、浮世絵は「日本芸術の基礎である理想性を欠いている」とし、印籠、根付なども「おもちゃ」であって「真の芸術が存在するところの、国民的熱誠の具現ではけっしてなかった」と述べている(注9)。後述するように、リーは天心の考えに同調していなかったが、少なくともこの点に関して言えば、天心と同じ視点に立っていた。しかしリーにとって、茶の湯の精神性も狩野派の派手な装飾性も、日本美術の固有性を示すものではなかった。日本美術史家が、日本美術を中国から独立した美術として捉えるのは、特異なことではない。たとえば、化学者であり浮世絵コレクターでもあったルイス・V・ルドゥー(Louis V. Ledoux)は、1927年の著作において、中国からの影響を認めながらも、日本美術は決して中国美術から派生したものではないと論じている(注10)。また戦後の日本美術コレクターで、後にそのコレクションがメトロポリタン美術館日本美術部門の母体となったハリー・G・C・パッカード(Harry G. C. Packard)も、日本美術は中国美術の支流ではないと断じている(注11)。しかし一方で、日本美術が中国美術の傍流であるという見方は、当時のアメリカでは一般的であった(注12)。たとえば、1951年に開催されたサンフランシスコ日本古美術展に際し、主催者のデ・ヤング美術館長ウォルター・ハイル(Walter Heil)は、カタログの序文に、アメリカ人の極東美術への関心はもっぱら中国に向けられたために、日本人が固有の美術を創造してきたことを見逃してきたと述べている(注13)。また先述した1953年アメリカ巡回日本古美術展の開催館のひとつとなったニューヨークのメトロポリタン美術館の館長フランシス・H・テーラー(Francis H. Taylor)も、「日本美術は中国の模倣で東洋の魔術だと思っていたが、よく見れば日本独特の個性もわかり、われわれの理解をはるかに越えるとは思えない」と語ったと伝えられている(注14)。そうした認識の背景には、最も早く本格的に日本美術をアメリカに紹介したアーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)や岡倉天心の影響が存在したと考えられる。フェノロサは、『東亜美術史綱』(Epochs of Chinese and Japanese art, 1912)の冒頭で「支那美術と日本美術とを以て、単一なる美術上の発展に属するものと為すことも、亦本書の第三の特色なり」と明言している。また岡倉天心が『東洋の理想』(The

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