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― 343 ―Ideals of the East, 1903)において示した理想の範囲も、日本と中国にインドを加えたさらに広い範囲であった(注15)。フェノロサや天心の日本美術史観は、東洋あるいはアジアを西洋と対峙するひとつの文化として捉えており、その中に日本美術を位置づけ、日本美術の独自性を強調するものではなかった。リーはフェノロサや天心の思想に傾倒していなかった。リーの『極東美術史』の巻末の参考文献には、フェノロサの『東亜美術史綱』も、天心の『東洋の理想』も載せられていない。それにもかかわらず、『極東美術史』の「第1章」は以下の文章からはじまる。「東洋美術に関する多くの本は、今や古典となっている、岡倉覚三の『東洋の理想』の“アジアはひとつである”という冒頭部分を引用してきた。この声明は真実からほど遠い。アジアは地理的にまったくひとつの大陸ではない。アジアの文化はひとつだという考え、たとえば「東洋的なる心」(oriental mind)といったもの、あるいは、東洋の人々は皆、高度に発達した形而上的な生活を送っている、といった考えは、間違っている。」(注16)もちろんリーはフェノロサを知らなかったわけではない。事実、『極東美術史』の第7章では、法隆寺夢殿の救世観音に発見に関して、フェノロサの名をあげている(注17)。したがってリーは、意図的にフェノロサの著作を無視し、天心を批判したと考えられる。天心に関して言えば、戦後、「アジアはひとつ」は、日本のアジア主義や大東亜共栄圏を彷彿とさせる言葉として、国内でも天心の思想は批判され、忘れられつつあった(注18)。占領下、日本で美術の民主化を指導する立場にあったリーが、公然と天心の思想を批判することができたのは、こうした時代背景を考慮すべきだろう。2.絵巻への関心リーが着目したのは、「高度に発達した形而上的な生活」の典型とも言える茶の湯や禅の価値観ではなく、絵巻の生き生きとした生活感であり、率直な人物表現であった。リーは日本滞在時に、すでに絵巻に注目していた。たとえば1947年11月、副館長としてのポストが内定していたシアトル美術館の館長リチャード・フラー(Richard E. Fuller)に宛てた手紙の中で、リーは数点の日本美術作品の購入を勧めているが、その筆頭に挙げられているのが、鎌倉時代の絵巻であった(注19)。翌1948年1月の手紙によれば、その絵巻は、益田鈍翁所蔵の《地獄草紙》と《福富草子》で(注20)、前者は1948年にシアトル美術館が購入している(注21)。

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