― 344 ―リーが絵巻に興味を抱く契機となったのは、おそらく京都市立美術館で眼にした絵巻の展覧会であろう(注22)。リーは、『アート・ニューズ』誌(1948年2月号)に、この展示に出品された《信貴山縁起絵巻》《地獄草紙》《餓鬼草子》について、「活気にあふれ、高い技術を持っている」などと高く評価した(注23)。1949年5月の『三彩』誌に発表した「鎌倉時代の美術」においても、リーは《信貴山縁起絵巻》の自由で力強い描写、《判大納言絵詞》の火炎の表現や大群衆の構図の巧みさに着目している(注24)。さらにリーは、そうした特徴を、中国美術との対比において捉えていた。たとえば、《平治物語》については、動きのある人物表現や力強さ、風刺的なリアリズムを特徴にあげているのに対し、中国の絵巻は、人物は目立たず、静かで上品であるとしている(注25)。先述した1953年アメリカ巡回日本古美術展の出品作品は、アメリカ側から呈示された出品希望リストと日本側からのリストの2種類が原案となっていた。やまと絵部門の出品作15点の内、アメリカ側のリストから10点が採用され、日本側からは3点しか採用されなかった(注26)。すなわち、アメリカ側のリーの意向が最もよく反映されていたのが、《鳥獣人物戯画》《伴大納言絵巻》《地獄草紙》《北野天神縁起》《平治物語絵巻》《一遍聖絵》を含むやまと絵のジャンルであった(注27)。3.日本美術の大衆化アメリカ巡回日本古美術展の翌1954年、リーはクリーブランド美術館において「渓山無尽 北宋の画巻と初期中国絵画史におけるその意味」という展覧会を担当している。カタログに「中国の最も大きな貢献は、明らかに山水の画巻である」(注28)とあるように、リーにとって、絵巻が日本固有の表現であると同様に、水墨山水画は中国固有の表現であった。この展覧会を見たアメリカ抽象表現主義の画家アド・ラインハートは、中国山水画の変容を感取し、東洋絵画の遠近法は、その「限りない広がり」と「無限」を認識することから始まると述べている(注29)。ラインハートは、1950年代、コロンビア大学でおこなわれていた鈴木大拙の講義を聴講するなど、禅や東洋美術に興味を抱いていた(注30)。2009年、グッゲンハイム美術館で開催された「第三の心 アジアを見つめたアメリカ人芸術家、1860-1989」展によくみられるように、戦後のアメリカにおける東洋美術受容においては、禅の影響が大きく取り上げられている(注31)。それはラインハートをはじめとする同時代のアメリカ前衛芸術家たちとの関連を指摘できるからであろう(注32)。
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