― 26 ―標であり、山頂に一本木のある「たて山」と、その右手方向に円仁が通った山道である芦沢峠が描かれている。対面石は山寺開山の僧である第3代天台座主慈覚大師円仁が地域を住処とする磐司磐三郎と対面し、この地域を譲るよう交渉した場所である。芦沢峠、立谷川を経て対面石に至ったという円仁入場の過程が画面の視点移動に反映されていると考えられる(注7)。また、対面石や先述の天華岩など、モチーフに山寺の歴史を暗示させる手法は外山正一が唱道した「思想画」の実例ともいえよう(注8)。以上のように、源吉が同世代の小山や本多と異なり、また由一と同じく光と空間の統一的表現に拘泥しないのは、在来絵画の名勝図的な表現にみる感覚を引き継いでいるからであろう。《武州金沢之景》(明治20年、衆議院憲政記念館蔵)〔図10〕は、このことが顕著に表れている作品である。伊藤博文が別荘のある夏島で憲法草案(夏島草案)を練ったことを記念して描かれた、やはり近代の名勝図といえるが、横長の構図は歌川広重の「武陽金沢八勝夜景」(安政4年、神奈川県立歴史博物館/蔵)〔図11〕などを下敷きにしていると考えられる(注9)。この構図は能見堂から見た光景であり、画面左手に描かれた「夏島」は、金沢八景図では「野島夕照」図でしばしば野島や烏帽子山(広重作品では画面中央とその左手脇)とともに描かれる。源吉は油彩で丹念に階調を追求しているが、その筆触は浮世絵や山水画の“ぼかし”による濃淡表現を想起させる。光の方向が不明確で、画面全体の遠近感が欠如してやや平板にみえるのは、やはり広重や在来の絵画の表現に親近性があるからであろう。地平線付近は淡く黄色い色調で、これは「油絵山水訣」などの空の描法にも記述のある方法であるが、一方で浮世絵の「一文字ぼかし」や幕末洋風画の空における定型的な表現をも想起させる(注10)。このように源吉の作品は由一同様、近代的というよりも在来の近世以前の絵画に近い面を有しているが、平明で臨場的な表現を示している点では、晦渋で定型的な描写になりがちな由一とは大きく異なる。例えば《最上川舟行の図》(明治14年、東京国立博物館蔵)など由一の山形県を描いた油彩画は、現地やその写真に取材してはいるが、その褐色調の色調や執拗な質感表現は現地とは異なる印象を受ける(注11)。一方、源吉の《最上川古口風景》(仮題)(明治44年頃、個人蔵)〔図12〕は最上峡の古くからの玄関口(=古口)である山形県戸沢村古口付近から西方向をみた最上峡の景色を描いており、画面中央に描かれた杉木立や両岸の形態、遠景の山並みなどが現況とよく照応する〔図13〕。川面の中央の点景人物は腰に魚籠をつけ麦わら帽を被って鮎釣りをしており、樹木の色調からも初夏の光景であることがわかる。青空と斜
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