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― 353 ―に街路の人物と近い位置にあるのは明白だ。このように、同時代及び後世の画家たちがマセイス作品を受けて制作した諸作は、両替商に対する根強い批判的視線を表わし、その表現のためにモティーフが加筆、変更されている。これは、両替商に対する批判的見方を表現する際に、マセイス作品が物足りないと感じられたことを示す。さらに、レイメルスワーレやクックの作品は妻の書物を勘定帳に変更しているが、これは、金銭の誘惑により信仰を忘れるという辛辣であったはずの風刺が、マセイス作品に読み取られなかったことを示唆する。そればかりか当時の道徳観に照らすと、夫と関心を共有する妻には良妻の鑑が読み取られた可能性すらある。エラスムスの1526年刊『キリスト教的結婚教育』等、結婚を主題とした同時代の書物では、妻が夫に従い、夫と心を一つにすべきであると再三説かれている。フランドルに暮らしたスペインの人文主義者ユアン・ルイ・ヴィーヴェスの1524年刊の著作『キリスト教女子教育論』では、結婚した女性は夫に仕える義務を負い、独身時代に神に向けていた関心の幾分かを夫のために割いても許されるとされ、夫に仕えることは神に仕えるのと同じ敬虔な行為であるとすら主張されている(注22)。本作の図様をふまえた両替商の肖像画が制作されたことも忘れてはならない。先述のイーゼンブラントの作品に加え、後世のコピーから知られるヘイスベルト・ファン・スハルラーケン(1519年-63年)と妻の夫婦肖像画も一例に数えられる(注23)。1551年と1552年というおそらく原画の年記も写し取った同作では、「最後の審判」の絵の掛けられた店内に両替商夫婦が半身像で捉えられている。肖像画が一般に像主の徳を提示する趣旨をもつものであることを考えると、これらの作例に範例を与えたマセイス作品には、両替商への批判が読み取られなかったのではなかろうか。以上の検討より、本作の両替商夫婦は、鏡像の男性が体現する内省的生き方を完全に実践しているわけでないものの、街路の人物たちのような俗世間の誘惑に屈しているわけでもない精神的位置にあると結論付けられる。もっとも、両替商という職業柄、夫婦がこの立場を守るのは容易ではない。天秤で慎重に貨幣を計量する夫には精神的価値を慎重に判断し、正しい道を選ぼうとする姿が読み取れるのではないか。このように物欲や金銭欲の誘惑に満ちた俗世に身を置きながら、神の教えに留意し、誠実に職業に従事しつつ生きることは、金融業や商業で身を立てたアントウェルペン市民たちの課題であった。3章に挙げた一連の職業肖像画はその実践を自己主張するものと言える。こうした事情をふまえると、本作の注文主像もおのずと浮き彫りになる。それは両替商夫婦像に体現されたような生き方に関心をもつ者、つまり金融業者ら自身であったのではなかろうか。実際、レイメルスワーレによる本作のヴァリアントの1

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