― 28 ―2.源吉の造形思考─平明な「国粋」趣味・様式の形成─源吉作品における“名勝図的”ともいうべき由一や在来絵画との親近性と、平明な臨場的写実性という二面性は、源吉にとって必然的かつ自覚的な選択だったのではないかと筆者は考えている。なぜなら、第一に源吉の基本的教養のなかに在来の和漢画があったことが容易に想像されるからである。源吉は由一の画塾「天絵舎」で教務を助けていたが、その門人の多くは川端玉章ら“日本画家”であり、そもそも父の由一自体が狩野派の修行から出発していた。源吉が主幹を務めた『臥遊席珍』でも和漢洋の絵画の起源沿革が並列に論じられ、沈芥舟の画論「学画篇 山水宗派」や張彦遠の『歴代名画記』、また版画による図版ではあるが、王維や夏珪の山水画が掲載されている。そもそも“臥遊”という表題自体、山水画の理念であった。第二に、源吉は絵画における日本「独立」(固有)の「趣味」や「様式」を形成するためには、西洋絵画の基礎の上に立ちながらも、特定の様式の模倣ではなく、時間をかけ、「理学」(哲学)をもって日本「国粋」の「趣味」を養成していくべきだと述べているからである。しかも、それは多くの人が受容し得る“平明”なものであるべきだと考えていたらしい。源吉の造形思考は明治美術会における演説から推察できる。源吉は同会月次会で二回演説しており、明治24年(1891)3月の月次会では日本画における和洋折衷を否定し、洋画に日本の在来絵画の美質を付加するのが明治美術会の採るべき「公明正大なる改良手段」であるとしている(注17)。この講演冒頭で源吉が「日本の絵と云ふものは、今日まで行はれて居るのは、装飾的のもので、此事に就ては諸先生の確説もあつて」(注18)と述べているのは、同会において盛んに行われた西洋画と日本画の本質や明治洋画の方向性についての議論を踏まえている。例えばイーストは明治22年(1889)7月の月次会で「将来に真正の広大[偉大]なる美術といふものを貴国に於て発達なさるゝにドコまでも此ノ装飾的美術に於て顕はるゝ所の天才を用ひて行かるゝ」(注19)べきであり、日本が「世界に現はすべき高尚なる卓絶したる国家的固有の美術(従来の日本画を指すにあらず)」は「泰西諸国が諸君に與ふる所の智識を充分に採り集めそれを土台として日本固有の美妙を加へて大に発達あらむ」(注20)と述べていた。源吉は上掲の議論を受けて以下のように述べている。すなわち絵は本来「模イミテーシヨン擬を基礎として成り立つものであるが」、日本のこれまでの絵は探幽にせよ琳派にせよ「模擬に遠さかりた画」であつてそこに性質の異なる「西洋の緻密な画法を附くつつ着けて、改良しようとするは其本源を誤つ手段故却て邪道に陥り」、「日本画の性質を失ひ、ヘ
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