― 372 ―像としてよりも、より大規模な図像の一部として付随的に表されていた。例えば、エル・エスコリアル修道院所蔵のハンス・ボル作の版画では、「善き羊飼い」図の周縁に7つのメダイヨンが並べられ、それぞれの内部に各「慈悲の業」が振られている〔図8〕。「七つの慈悲の業」図が単独で現れるようになるには、対抗宗教改革期を待たなければならない(注8)。当時のカトリック教会は、美術を教化の道具として駆使し、とりわけプロテスタント側に拒まれた教義や宗教伝統の擁護に砕心していた。その状況において「七つの慈悲の業」も、絵画や彫刻の主題に大きく採り上げられるようになる。この時代における「七つの慈悲の業」図の重要な変化の一つは、ゴメス・ネブレーダも指摘するように、それぞれの「慈悲の業」が聖書の物語や聖人伝を介して表されるようになったことであろう。「慈悲の業」は、中世以来、基本的に同時代の人物同士による場面を通して図像化されていた。それに対して例えば、かの著名な祭壇画《七つの慈悲の業》においてカラヴァッジョは、同時代の街角を舞台に据えながらも、「渇いた人に飲み物を与える」行為と「裸の人に服を着せる」行為の暗示として旧約聖書のサムソンとトゥールの聖マルティヌスを描き入れるなど、それらの歴史的な権威を顕示しようとしている(注9)〔図9〕。このカトリック教会の護教的な姿勢は、当時、ヨーロッパに普及していたイエズス会士ペトルス・カニシウスの著作『小教理問答』(1558年初版)にも顕著であり、特にトリエント公会議(1545~63年)以降、彼は「七つの慈悲の業」の説明に際し、プロテスタント側からの論駁に備えて逐一、聖書における典拠を明示するようになったという(注10)。その徹底的な構えは、1589年のアントウェルペン版において「慈悲の業」の一つひとつに付された挿絵版画でも貫かれ、確かに前景では同時代の人物がおのおのの「慈悲の業」を実践しているものの、後景には必ず、相応な聖書の物語が描き込まれている(注11)〔図10〕。さらに、それぞれの版画の下方には、後景場面の出典が簡潔ながらも明確に付記されている。マニャーラもカリダード聖堂の「慈悲の業」連作において、カラヴァッジョやカニシウスと同じくカトリック特有の宗教伝統の一つを守るために、その由緒の正しさを証明しようとしたのであろう。というのも、それらの画面では同時代の人物が完全に排され、キリスト教において最高の権威たる聖書の物語が一杯に表されているからである。つまり同連作では、その図解としての明瞭性をいくらか削ってでも聖書への仮託を貫くことで、「七つの慈悲の業」の正統性がより高らかに表明されたのではなか
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