― 29 ―ンテコなものが出来る」(注21)。これはフェノロサや岡倉天心ら、日本画に西洋画の方法を摂取しようとする動向を暗に批判しているのであろう。次いで源吉は明治24年(1891)9月の月次会で「テースト(趣味)及スタイル(画風)ニ就テ」と題してやや長い講演を行っている。趣味(テースト)の発達が「画格」とか「画風」(スタイル)をもたらすが、日本には古代ギリシアやフランスのような世界的に通用する「国土ノ趣味」すなわち「ナショナル、テースト」はいまだ確立されておらず、明治美術会会員にはこれを「真正ノ道理ニ依テ発達サセテ」いく責務があるという趣旨である(注22)。趣味および画風形成の議論は、本多錦吉郎訳『画学類纂』の「礼氏絵事弁」で紹介されているレーノルズのロイヤルアカデミーにおける講演を踏まえている(注23)。ただしラファエロとミケランジェロの比較論では相違があり、源吉はラファエロをミケランジェロのような「超絶シタ「スタイル」ハ無カツタケレトモ[中略]大変ニ人ノ気ニ入」る平均的な趣味とスタイルを形成したとしてより高く評価する(注24)。ラファエロを荘重様式の体現者として高位に位置づけるレーノルズの論調とは異なり(注25)、多くの人に受容され得る“平明さ”を源吉が重視したことがわかる。また美術に関する「趣味ト云フモノハ種々ニ耕ヤシ(Cultivate)改良シテ往カナケレバナラナイ」(注26)という議論は、源吉が文中で言及しているヒーコック(LaurensP.Hickok, 1798-1888)の“A system of moral science”(London, 1853)の一節、原著第1部2章3節1項のTasteや次項のScienceの項を反映しており、源吉が当時の心理哲学(心理学)や美学の議論に精通していたことがわかる。ヒーコックは東京開成学校でも講じられ、箕作麟祥(1846-1897)がヒーコックの上述本などを簒訳した『泰西勧善訓蒙』は修身の教科書ともなった(注27)。箕作は蕃書調所や明六社に参加しており、源吉は同じ明六社の西周や由一とも親しかった西村茂樹の肖像画(《西村茂樹像》〔東京国立博物館蔵〕)を描いていることから、心理哲学や美学上の教示を彼らや西周の旧主君である亀井茲明から受けていたかもしれない(注28)。美術が単なる技術ではなく「趣味」や「理学」に基づくという源吉の議論は、この講演の翌年に源吉が編集、出版した『高橋由一履歴』の記述を想起させる。「嘉永年間或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ悉皆真ニ逼リタルガ上ニ一ノ趣味アルヿヲ発見シ忽チ習学ノ念ヲ起シ」(注29)という有名な一節にみえる「趣味」の語は、当然ながら嘉永年間にはその概念・訳語ともに定着していない。ここで“趣味”の語を用いたところに、日本における芸術としての“美術(家)”の祖に由一を位置づけようとする源吉の意思や戦略をみることもできよう。
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