― 382 ―上の観点に賛成し、引用している論文も少なくない(注7)。しかしながら、次章で取り上げるペリオ探検隊の記録写真によれば、当初の石窟中央には、現存の低い土壇ではなく、高い建造物の中央仏塔があったと見られる〔図3〕。(2)第285窟の造営者について第285窟の造営者について、先行研究を振り返って見ると、主な説が二つある。第一は、段文傑氏、賀世哲氏、馬徳氏の説で、東陽王(元栄)を造営者とするものである(注8)。その主な根拠は三つあり、一つ目は、第285窟北壁にある墨書題記の時期が、元栄が「瓜州(敦煌)刺史」に就任した時期と同じであること。二つ目は、「李君修莫高窟仏龕碑」にある内容(東陽王は莫高窟で大きな石窟を一つ造営した)と、元栄に「東陽王」の号が授けられたこと。三つ目は、石窟にある中原の「秀骨清像」といわれる作風の画像である。元栄は元中原の洛陽に住んでいたため、画風も中原から伝来したものと推定した。第二は宿白氏の説である。宿白氏は、東陽王が造営した石窟は第249窟で、第285窟ではないと判断する(注9)。その主な根拠は四つある。一つ目は、第249窟は第285窟と同じ時代(西魏)に造営された石窟であること。二つ目は、前の説と同じ「李君修莫高窟仏龕碑」の内容。三つ目は、第249窟にも石窟にある中原の「秀骨清像」といわれる作風の画像があること。四つ目は、元栄の写経に関する研究成果である。その研究により、元栄は天王を特に重視したことが分かっている。そして、第249窟の天井には大きなモチーフとして阿修羅が描かれている。以上の争点を振り返ってみると、段文傑氏等と宿白氏の意見の相違は、造営した石窟の相違であり、碑文にある東陽王が元栄か否かということについては全く異論がない。すなわち、東陽王は元栄であることを自明としている。一方、「李君修莫高窟仏龕碑」によると、「(前略)楽樽と法良の二人の僧が莫高窟の開山であり、建平公と東陽王がその造業をついだ。その後、四百余年たって、現在(唐代)では、合計千余室ある、今も僧徒がいて、崇教寺と呼ばれる。」という(注10)。唐時代まで「合計千余室」あった莫高窟は、現在、唐以降に造営された石窟と合わせても600個しか残っていない。さらに、北壁を制作した工房の工人すべてが、中原地区より連れて来られたとは限らないと考える研究者もいる(注11)。碑文に記録される「東陽王」が造営した石窟が残っているか否かを再検討する必要があろう。なお、孝昌元年(525)九月十六日以前、北魏明元帝の四世孫の元栄は洛陽から敦煌に到着して瓜州刺史に就任し、永安二年(529)八月に「東陽王」の号を受けたこ
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