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― 383 ―とがわかっている(注12)。一方で、北魏太和二一年(497)、『通鍳・斎紀』「魏書・神元平文諸帝子孫東陽王傳」には「東陽王元丕父子不楽遷洛。丕子隆、超参與謀叛、事覚、隆、超母弟及餘庶兄弟、皆徙敦煌」と記されており(注13)、魏時代の数十年間(497~529)に「東陽王」と称した人は少なくとも二人だと知られる。また、宿白氏の研究よると、石窟にある壁画の制作は同一時期ではなく、途中に停止した可能性があるとされる。第一期は西壁、第二期は天井と南壁、第三期は北壁と東壁であるが、東壁と北壁の滑黒奴供養の七面の仏像は天井と南壁より遅い可能性もあると言う(注14)。さらに、東壁の下部には宋代の供養者像があり、小洞窟の前には元代に修理した仏塔も残存している(注15)。これによれば、各時代によって、石窟の造営者も、使用目的も何度か変わったことが窺える。二、第285窟の構造とその宗教的機能(1)ペリオ探検隊の記録写真に見えるもう一つの第285窟第285窟の構造には、石窟の切り開き方だけで四つの特徴がある。一つ目は、先に述べた通り「前後式」の石窟であること。その前後両室の間に通路があり、後室は「主窟」とよばれ、二つの特徴を持っている。二つ目は、主窟の西壁(正面)に三龕を開き、中央の大龕に仏倚像、左右両龕に僧形の禅定像が安置されること。その西壁の左右両側壁(北壁と南壁)におのおの四つの房室がある。蕭黙氏により、「ヴィハーラ」(毗訶羅式)と呼ばれる石窟である(注16)。三つ目は、主窟の天井である形が伏斗形とよばれる藻井である。そして四つ目の特徴は、ペリオ探検隊の記録写真によって明らかとなる。改めて記録写真を見ると、当時の石窟内部には非常に混乱しているような状況が窺えるが〔図3〕、現存の状態と比べるならば、当時第285窟の中央に高い仏塔が造営されていると見られる(注17)。しかし、今高さが30cmの土壇しか見られない状態となっている(注18)。これを塔と考えれば、第285窟は「中心塔柱」石窟であると位置づけられる。「中心塔柱」石窟の源流については、印度の諸石窟に求められ、中心塔柱をめぐりながら礼拝活動を行うことを目的として作られている(注19)。(2)ヴィハーラ石窟について先行研究によれば、第285窟の奥壁と天井に禅観の僧形が表されているところから、「僧房窟」というより「禅定窟」とすべきであるという(注20)。「禅定窟」というのは、インドでいう毗訶羅(ヴィハーラ)にあたるものである (注21)。ヴィハーラは

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