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― 386 ―性世俗供養者にある「史崇姫」氏はソグドの史国人と推定される。仏教の東漸に関して、ソグドは中国より早い仏教を受容した国であり、伝教の高僧にも多くのソグド人がいることが知られている(注39)。以上、北壁七面の供養図において、本尊は自由な組み合わせであり、供養者は異なる民族の服装、異なる国の名字など不規則な配列が認められる。造窟に際して、一人の供養者或いは一族ではなく、複数の供養者から資金を集めて石窟を造営した経緯が推測される。すなわち、「合弁造窟」という形式であったことが考えられる。資金を得たのち、その供養者の願いによって、一部の場所をもらい、その場所に自分が好きな仏画とその供養者の画像等を描かせたと考えられる。そのような例は、莫高窟のほかの石窟にもあり(注40)、雲崗石窟にもある。造営の中断も、発願者が複数いれば不自然ではない。(3)北壁の造像集団と邑社の造像について中国の中原地方には、僧侶集団と俗人集団とがともに造像を行った例が多く、これらの造像集団を「邑社」(社邑、邑義などもいう)という(注41)。莫高空第285窟北壁の造営形式は「合弁造窟」という集団造像であり、中原地方の「邑社」造像と似ている。「邑社」は仏教活動のために信仰者を集める一時的な集団である。基本的には仏教の造像期間を中心として存在し、造像活動が終了後に解散するのは普通であるが、長時間で存在していた場合もある(注42)。北朝時代の「邑社」造像の例としては、中原地方(河南、陝西、山東、河北)において、仏教石窟や造像碑などがよく見られる〔図12〕。その配列には「邑師」(僧侶)先導とし、「邑子」(俗人供養者)の画像と名前を後ろに表しているのは普通である。そして、供養者の画像と名前が整然と区画されている。しかしながら、莫高窟第285窟北壁の七面の供養図を振り返って見ると、その下部の供養者の配列については、以下三つの情報が知られる。一つ目は、第一区と第二区の供養者配列の一人目は全て僧侶の身分であること。二つ目は、第三区と第五区及び第六区にある発願文の東側の一人目はすべて比丘で、西側に比丘尼がいないこと。三つ目は、第四区と第七区には僧侶がいないこと。以上を踏まえると、同時期の敦煌における様々な形の供養集団の存在が想定される。なお、僧侶が修行と同時に出身の家族集団に奉仕する例が、莫高窟の造営史には少なくないと言われている(注43)。

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