― 30 ―源吉の講演はレーノルズと同様、古典研究の重要性を説く一方で、時代による趣味の変遷を踏まえ、古典の大家のスタイルを「取ツテ真似シタツテ以テ自分ノ独立ノ趣味ヲ拵ヘテヲクコトハ迚モ出来ル訳ノモノテハアリマセン」(注30)と述べている。また東西の特定の様式に偏ることも否定して「古イ一種ノ美術を色々ニひねくつて是レハ日本固有ノ趣味テアルトカ「ナショナル、テースト」テアルトカ云フテ威張ル訳ニハ決シテ往カント思ヒマス付イテハ此ノ上他国テヤツテル一部分ヲ僅カニ入レテ見タ處テ夫レヲ以テ本統ノ日本ノ国粋ノ趣味ヲ発達セサル事カ出来ヌ」(注31)。後段、他国の様式を部分的に摂取しても日本絵画の国民的趣味は形成できないという議論は、小山や本多が受け入れたような瞬時の光による空間の統合的表現、またそれと表裏を成す“明部の厚塗り”という西洋の古典的写実表現の原理にも全面的には依存しないという表明とも読める。明部を白色で厚塗りするフォンタネージの画風は由一の門人安藤仲太郎に「メチャメチャのキタナイ絵」(注32)と評されており、安藤や由一と同様、背景を薄塗りする在来絵画の教養を持った源吉にとって受け入れ難いものだったのであろう。もっとも、源吉の定型的で平明な表現は“風呂屋の背景画”にみる平板さにも通じている(注33)。しかしながら、源吉の山形における風景画が強い拒否を伴うことなく地元で今日まで受け入れられてきたのは(注34)、単にそれが身近な風景を描いているというだけでなく、芸術としての“美術”が自明でない人々にとっても受容し得る平明なものだったからであろう。幕末洋風画など、源吉作品がその表現の起源を風呂屋の背景画と共有しているのは故なきことではない。源吉の表現が彼の目指した“国粋ノ様式”たり得たかどうかは措くとしても、それは“中央”で展開されたものとは異なる“もうひとつの”、土着的な近代日本洋画の姿であったことは確かである。注⑴「美は甦る 検証・二枚の西周像─高橋由一から松本竣介まで─」展図録、神奈川県立近代美術館、2014年。「新出と既知の高橋由一「西周像」研究報告書」神奈川県立近代美術館、2014年を参照。⑵本多錦吉郎「故高橋源吉氏」『美術新報』13巻2号、1913年12月、p. 76。⑶大場詩野子「高橋源吉《大石田風景(仮題)》について」『東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター紀要』No.4、2014年を参照。⑷「道路山水」は画面中央に道路が配され、「道路並木の屋並等の諸線が地平線上の消失点の方へ消失」(石井柏亭『日本絵画三代誌』創元社、1942年、p. 46)するような構図法による風景画のことで、小山正太郎主宰の画塾「不同舎」における写生画に典型的にみられた。⑸「油絵山水訣」は本多錦吉郎『画学類纂』所収、明治23年(1890)序。Alfred Clint, A Guide to
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