― 398 ―注⑴快慶が主となって造像活動を行っていた工房。但し、快慶は康慶の弟子であり、その工房(「康慶工房」。いわゆる「慶派」で、後に運慶、湛慶が継承。)に帰属していた。そのため快慶工房は慶派内の小工房である可能性が高く、慶派の造像と快慶工房の仕事を並行して行っていたと思われる。今でいうセカンドブランド的なもので、快慶工房のみの受注・納品も大量に行われていたようである。⑵快慶作品の耳の形については諸先学によってすでに研究が進められており、有効な判定の方法の一つとして定着している。水野敬三郎「快慶作品の検討」『美術史』47 美術史学会 1963年西川杏太郎「京都随心院の快慶作金剛薩埵像」『国華』888 国華社 1966年など。但し、諸要素により毎回必ず同じ形になるわけではない。ゆえに今回は有力な基準の一つとして、より研究の精度を高めることを目的としているが、最終的な作者比定はあくまでも総合判断で行うべきことである。⑶『日本彫刻史基礎資料集成』(中央公論美術出版社)に掲載の銘記がある35件と、刊行後にみいだされた2件(京都・悲田院の宝冠阿弥陀如来坐像、和歌山・金剛峰寺の執金剛神・深沙大将像)とそれらに類する銘と考えられる1件(小野市・浄土寺の裸形阿弥陀如来立像)を加えて38件となる。なお、後述する松阪市・安楽寺像が認められるのであれば、1件増えることとなる。⑷報告者はかつてこの問題に触れたことがある。なお、対耳輪の上脚の表現で分類をしているが、耳全体の形や耳孔などの他の細部の形の近似を確認したうえでの分類である。寺島典人「行快作 木造阿弥陀如来及び両脇侍像 西教寺蔵」『国華』1403号「近江の仏像特集号」 国華社 2012年寺島典人「コラム 仏像の耳と仏師─快慶・行快師弟の造った耳─」『日本美術全集7 運慶・快慶と中世寺院』 小学館 2014年⑸上脚と下脚が同じくともに前方を向いているが、その間の幅がとても狭い例もある。康慶の奈良・興福寺南円堂の不空羂索観音坐像や肥後定慶作の京都・鞍馬寺の聖観音立像、京都・大報恩寺の六観音のうちの3体など。⑹基本的な行快の事績は、下記を参照。三宅久雄「仏師行快の事績」『美術研究』336 東京文化財研究所 1986年近藤謙「城陽市極楽寺阿弥陀如来立像について─仏師行快と快慶晩年の事績─」『密教図像』22 密教図像学会 2003年⑺とはいえ、行快だけのくせではなく、他の像でも見られる。⑻ちなみに、「巧匠法眼快慶」銘のある目犍連像をはじめとして、阿難陀像や大迦葉の3体はⅠの形式(舎利弗像もやや近い)をもっており、快慶本人の作である可能性がある。⑼本像は、かねてからその作風が行快の法橋時代のものに近いと考えていたもので、平成24年(2012)に調査を行い、足枘墨書銘の「□□法橋行□」を「巧匠法橋行快」と特定した。そして遍照寺像や峯定寺像などとともに同年秋に大津市歴史博物館において展示を行った。展覧会図録『法然上人没後八〇〇年記念・親鸞聖人没後七五〇年記念企画展 阿弥陀さま─極楽浄土への誓い─』 大津市歴史博物館 2012年⑽微妙なものもある、△印。なお、「前後」は前後矧ぎ、「正中」は正中矧ぎ。⑾大報恩寺の十大弟子像においては「快慶の耳Ⅲ」と、さらにもう1種ありそうである。
元のページ ../index.html#408