― 407 ―を導こうとした(注15)。1880年代を通じてアメリカ各地で行われた日本文化や日本の陶器に関するモースの講演は、両利きの得技を生かした巧みなスケッチとユーモアを交えた語り口が大いに人気を博し、ウィリアム・S. ビゲロー、イザベラ・S. ガードナー、ジョン・ラファージといったボストンの上流階級人たちの日本旅行を触発した(注16)。一方で不思議なことに、当時の主な窯業関係の資料には、モース周辺の関係者を除き、コレクションへの言及がほとんど認められない(注17)。その理由としては、日本陶器の一般的な受容から外れたモースのコレクションの位置づけが挙げられるのではないだろうか。今日でこそ、体系的コレクションとしての価値が認められるモースの蒐集品であるが、当時欧米で人気のあった輸出用の陶磁器とは趣が異なっていた。モースが活動した19世紀後半のアメリカにおけるヴィクトリア朝文化の中では、光沢のある釉薬、手の込んだ絵付、安定した左右対称の器形などが醸し出す、総合的な完成度の高さや高級感のある仕上がりの陶磁器が求められた〔図12〕。日本の陶磁器に対しても、輸出用の華やかな装飾を施した製品が求められる一方、伝統的な陶磁器は注目されていなかったのである(注18)。モースは1880年代に、リヴァプールの繊維商で日本陶器のコレクターだったジェイムズ・ロード・ボウズとの間で、日本の陶磁器に関する論争を繰り広げている(注19)。ボウズが日本の茶器や無装飾の陶器は美を欠き、日本陶器の代表と見なすべきではない、とする見解に立ったのに対し、モースはボウズのコレクションは外国向けに作られた輸出用であり、美しくはあっても真の日本の陶芸ではない、とする見方を取った。当時の欧米では、ボウズの主張の方が一般的であった(注20)。加えて20世紀前半、政情の混乱を背景に中国美術の優品が国外に流出した時期には、チャールズ・L. フリーアを筆頭に鑑賞を目的とする東洋陶磁のコレクションが形成された。対して、19世紀の博物学的な関心のもとで集められたモース・コレクションは「質が低い」と評され、ボストン美術館内でも批判の対象になった。1909年の新築移転にともない、ボストン美術館の展示方針は、素材や技法ごとに多数の作品を産業見本的に集積するサウス・ケンジントン型から、文化・時代別に優品を選別したモデルへと変化する。この過程で、1892年の購入時点では他に類をみない充実したものと評されたモースのコレクションも「前時代的」と判断され、研究用資料として展示室から屋根裏の一角へ移されてしまう。1904年に同館に加わった岡倉天心も、モースのコレクションに対し「陶器は、ここではなく、産業博物館に置くべきものである。あまり優秀な物がないこのコレクションは、展示するべきではない」と批判的
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