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― 417 ―物館のホブソンらによって全11巻にまとめられている(注7)。祖父がギリシア系移民で、金融業やインドとの貿易で財をなし、東洋美術コレクターとして知られていた彼であったが、1930年頃におこった世界恐慌の結果、コレクションを維持できなくなっていたのである(注8)。展覧会開催が発表された1935年1月、コレクションの売却が正式に決まり、大英博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に所蔵されると報道された(注9)。しかし、資金不足により全コレクションの購入はかなわなかったのである。それが実現したのは翌年の4月のこと。王立芸術院が中国展の利益から1,000ポンドを寄付してコレクションの購入資金にしたというのである(注10)。こうして、ユーモフォポロスが最後まで手放さずに彼の死後にオークションで売却された一部の作品以外、コレクションはすべてロンドンに残ることとなったのである(注11)。英国外務省と国民政府昭和9年1月、デイヴィッド卿らから開催の提案を受けた英国外務省は、当初から国民政府への対応は最新の注意が必要であるとして積極的に計画の支援を行うこととする(注12)。外務省で展覧会の担当に決まったのはステファン・ガセリー(Stephan Gaselee: 1882-1943)。王立芸術院や興業主では解決できない問題は、外務省が取り組むという体制であった。交渉当初から外務省の頭を悩ませた問題が2点あった。まずは、国民政府が中国展への作品貸し出しと引き換えに提示した「中国展を英国王室が後援する」という条件である。1931年に英国芸術院で開催されたペルシア美術展の後援が英国王ジョージ5世(King George V: 1865-1936)とパフラヴィー朝イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィ(Rezā Shāh Pahlavi: 1878-1944)だったことを引き合いに出し、本展にも同様の扱いを求めたのである(注13)。外務省と内務大臣との交渉の結果、ジョージ5世とメアリー王妃(1867-1953)、そして林森(1867-1943)国民政府主席が中国展のパトロン(後援者)となることが決まったのは同年12月12日のことであった(注14)。国民党政府が強硬に要請をしたもうひとつの条件は、輸送中の安全を英国政府が保障するということ。金額が巨額になるため作品に損害保険はかけないこととし、その代りとして英国軍艦で輸送することが提案された。これについても外務省と英国海軍との交渉の結果、駆逐艦HMSサフォーク〔図2〕がその任務にあたることで決着した(注15)。こうして中国展は、英国政府が後援をし、故宮の名品が英国海軍の駆逐艦によって輸送されるという前代未聞のイベントとして「演出」をされた。国民政府

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