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― 418 ―にとっては英国政府との関係を国際的にアピールできる絶好の機会になったことは間違いないだろう。昭和10年2月1日、英国駐北京公使アレキサンダー・カドガン(Sir Alexander Cadogan: 1884-1968)から外務省に報告が入る。その内容は蒋介石(1887-1975)国民政府軍事委員会委員長が展覧会に賛成しているというものである(注16)。国民政府の実質的な代表である蒋介石からの許可を確認したことにより、開催にむけた障害はこれでおおむね取り除かれた。詳細は後述するが、デイヴィッド卿等により2月末から4月中旬にかけて上海で作品選択が行われた。6月6日、HMSサフォークがそれらを載せて上海を出航し、7月26日ポーツマス港に到着。11月28日に無事に中国展は開会を迎えた。会の盛況ぶりは先述した通りであり、近代中国美術史上の一大イベントとして歴史に刻まれることとなったのである。日本参加までの経緯昭和10年1月、中国展の開催が正式に決定し、3月には実行委員会のメンバーが発表された。委員長に推薦されたのは日本ではリットン調査団で知られるリットン伯爵(2nd Earl of Lytton: 1876-1947)。そして、副委員長には画家で王立芸術院総裁のレウェリン卿(Sir Samuel H. W. Llewellyn: 1858-1941)と郭泰祺(1888-1952)駐英国民政府公使。書記は王立芸術院のウォルター・ラム(Walter Lamb: 1881-1961)で、その他にデイヴィッド卿など14名が委員として選ばれた(注17)。同月7日の王立芸術院の議事録には、ラファエルが松平恆雄(1877-1949)駐英日本大使に面会し、日本からの出品に対する支援を要請したと記録されている。大使はその席でロンドンに支店をもつ山中商会に経費を抑えることができるかについても問い合わせてみると答えたという(注18)。3月5日、松平大使から連絡を得た山中商会がラムへ電報を入れる。そこには、日本の山中商会本社からの連絡として、作品の出品については日本政府の許諾がなければ難しいとある(注19)。開会まで9カ月を切った2月、デイヴィッド卿、ラファエル、ホブソン、ユーモフォポロスの4人が作品選択のために上海に向かった。2月25日にデイヴィッドとラファエルが、3月9日にユーモフォポロスとホブソンが上海に入った。ロンドンで展示できる作品はOld Bank of China に陳列され、そこで作品選択が行われた。選択された中、約30点はコンディションの問題や、中国にとって歴史的な価値が極めて高いなどの理由で借用を拒否されたという(注20)。3月10日、ラファエルは上海から東京の天羽英二(1887-1968)外務省情報部部長

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