― 419 ―へ書簡を発送している。内容は中国展のための作品選択を目的に3月末に来日するという連絡。同時に国宝の国外持ち出しについての規制の緩和についても依頼している(注21)。期待を持って来日したラファエルであったが、作品貸し出しの交渉はうまくいかない。文部省重要美術調査会長の瀧精一(1873-1945)からの大反対をうけたのである(注22)。結局、交渉は進展のないままにラファエルは一旦上海に戻らざるをえなかった。4月18日、上海での作品選択を終えたデイヴィッド卿、ユーモフォポロス、ホブソン、そしてラファエルはその3日後に日本に向けて出発。5月4日に4人は東京の帝国ホテルで合流した(注23)。一行は奥田誠一(1883-1955)、山中定次郎(1866-1936)、岡田友次(生没年不詳)らの案内で有名コレクションを訪問。関東では岩崎邸、藍原邸、根津邸、細川侯爵邸、東京美術学校、帝室博物館、関西では白鶴美術館、藤井有鄰館、村山邸、守屋邸を見学したという(注24)。しかし、重要美術調査会の反発は依然激しく交渉は失敗に終わり、5月22日の『東京朝日新聞』紙上で日本はラファエルに不参加を通告したとの記事が報道された(注25)。日本不参加のニュースはすぐに英国でも報道された。以下がその時の記事である。中国美術のロンドン展 日本からの借用は無し パーシヴァル・デイヴィッド卿を長とする英国の使節団は、ロンドンでの国際中国展への美術作品の借用を目指していたが、日本からは1点たりとも得ることができないという失敗により失望し、この金曜日に日本を発った。 使節団のメンバーは拒絶の理由が理解できないようだ。彼らはとても友好的に出迎えられ、多くの主要なコレクターは借用に意欲的であった。唯一の反対は、政府の美術諮問委員会の長である瀧名誉教授から公然と発せられた意見であった。彼は、あらゆる重要美術品は、たとえ一時的であっても国を出るべきではないと反対した。この国粋主義的な雰囲気が世間にはびこり、驚くべきことに、それが日本を唯一の参加拒否国にするのに十分な力となったのである。(注26)一旦は潰えたかと思われた日本の参加。しかし、8月23日、山中定次郎からの国際電報がロンドンの実行委員会に届く。そこには「ロイヤル・アカデミーの展覧会に日本が正式に参加するという喜びのニュースを心からお祝いいたします」とある(注27)。それから暫く経った9月3日の『東京朝日新聞』紙上で、美術を通じた国際親善を目的とする民間有志の熱意により、中国展に参加をすることが決まったことが報道された(注28)。その翌日の記事には、天皇陛下が御物から中国展に対し周代の銅
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