― 420 ―器《麟盉》を御貸下げになるとの報道がなされる。この報道により反対派は沈黙、無事日本からの出品が実現したのである(注29)〔図3〕。日本が参加を辞退したのが5月。それから約3カ月の間に果たして何が起こったのであろうか。実はそこには、英国外務省、および創設間もない国際文化振興会の努力があった。先の3月、瀧の反対で作品借用の交渉が進まなかったラファエルは、ロバート・クライフ(Sir Robert Clive: 1877-1948)駐日英国大使に事態好転への支援を依頼したらしい。4月8日にそのクライフがロンドンのガセリーに以下の機密書簡を送っている。数日前、林男爵が電話をかけてきたのでこの問題[日本の中国展参加]について話した。[中略]私は、「もしも秩父宮殿下に展覧会への興味を持ってもらうことができれば、天皇陛下か宮内省が皇室のコレクションから作品を貸し出して下さるかもしれない、そうすれば反対派を黙らせることができるだろう」と提案した。聡明で経験豊かな林男爵は私の言葉を聞き、何ができるか考えてみると約束してくれた。(注30)林男爵とは元駐英日本大使の林権助(1860-1939)枢密顧問官のことである。実際にこのやり取りの後に何が起こったのかの記録は残っていない。しかし、ここでクライフが林権助に提案したことが9月に実現したように見える。クライフと同様に日本側にも日本参加の可能性を模索した人々がいた。先述の9月3日の『東京朝日新聞』の記事では日英協会が主体となり「国際支那美術展覧会出品委員会」を結成したとある。会長には先述の林権助を据えたこの出品委員会、実は、昭和9年に結成された財団法人国際文化振興会(以下KBS)と密接なつながりを持っていた。KBSは、同年5月に総裁に高松宮宣仁親王殿下(1905-1987)、会長に近衛文麿公爵(1891-1945)を据え宮内省から下賜された5万円を原資として結成された(注31)。会の設立趣意書には、「我國並ニ東方文化ノ眞義價値ヲ世界ニ顕揚スルハ啻ニ我國ノ爲メノミナラス實ニ世界ノ爲メニ遂行スヘキ日本國民ノ重要任務タルヘシ」とある(注32)。国際連盟脱退後の日本が文化外交を進めていく上での拠点となることを期待されていた団体である。中国展とKBSとの関係についてみてみると注目すべき事実に気付く。中国展の開催委員として選ばれた日本人は全12名〔表1〕。その内、団、樺山、門野、濱田、三原
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